人もいない春


『人もいない春』 西村賢太   ☆☆☆☆

 またまた西村賢太である。この人の私小説は病みつきになる。これも短編集で、定番の「秋恵もの」や珍しい創作「悪夢」など色んなタイプの作品が入っている。いつもの貫多が出てきて、アルバイト先で惨めな思いをしたり、プラトニックな恋愛に憧れて相手を探したりする。題材としては全体に小粒な印象がある短編集だが、一つ一つの充実度はいつも通りだ。面白さ完全保証。

 中でも「悪夢」は、私小説家をもって自ら任じている西村賢太が書いたフィクションであり、珍しい。少なくとも私は初めて読んだ。一体どういう経緯で書かれたものなんだろうか。これには『或いは「閉鎖されたレストランの話」』と副題がついていて、なんとレストランに住む鼠の一族が主役というとんでもない小説である。かなりグロテスクで、確かに「悪夢」というにふさわしい。それにしても、この人は何を考えてこんな短編を書いたのだろうか。

 それから面白かったのは貫多が純愛に憧れる話で、まず彼は喫茶店のバイトの女の子に懸想する。この子はいつも底の厚いサンダルを履いていてカッポカッポと馬みたいな足音をさせてやってくるというところでまず笑い、彼女に話しかけることすらできない貫多の駄目っぷり、ちょっと話せるようになったら今度は空高く舞い上がってしまうその現金さ、そして例によって調子に乗ってやりすぎてしまい、古書店の店主に「終わったな」と言われるまでをニヤニヤしたり爆笑したりしでたっぷり堪能できる。更にそれだけでは終わらず、その後人づてに女の子を紹介してもらうエピソードへと続くが、これがまたまったく期待を裏切らない展開である。笑えるだけでなく痛々しく、「バカだなあ」と「でもちょっと分かるなあ」が同居するところが西村賢太の醍醐味である。

 鉄板の「秋恵もの」二篇は、同棲初期の頃の話。まだ二人の雰囲気がいい。特に最後の「昼寝る」は途中で秋恵を泣かせるものの、最後はいい雰囲気で終わるという珍しいパターンである。もう一つの「赤い脳漿」は、最初はそこそこいい感じに始まってとんでもない展開となる。特に途中、貫多が秋恵に昔のアルバムを見せてもらうところはもう最高である。昔の秋恵の写真を見ては気分的にアップ&ダウンするのだが、今思い出しても笑える。しかし秋恵さん、あんまり自分の写真映りを気にしない人なのだろうか。最後は貫多の行動があまりに大人げなくて、つくづく秋恵に同情してしまう。