冤罪法廷

『冤罪法廷(上・下)』 J・グリシャム   ☆☆☆☆

久しぶりにグリシャムの新作本を買った。しかも私が好きな冤罪ものだ。期待感に胸を膨らませて読み始めたが、どうも思った感じと違う。面白くないわけじゃないけれども、私が知っているこれまでのグリシャム本となんとなく感触が異なる。そのまま読み終え、訳者あとがきを読んでようやく腑に落ちた。本書は実際に存在する団体の活動をモデルにし、実際にあった事件をベースに書かれた、いわばノンフィクション風ノヴェルだったのだ。

過去のグリシャム本やいわゆるリーガル・スリラーには個性的に脚色されたキャラが多数登場し、派手な事件が起き、憎たらしい悪役が登場し、事件の進行はどんでん返しの連続みたいなものが定番だ。もちろんそれによって優秀なページターナーとなるのだが、本書はそういう小説ではない。もっとリアリスティックで、現実の事件や裁判ってこうだろうなと思わせるややこしいディテールがあり、何をするにも面倒くさい。そして、あざとくスリリングに物語を盛り上げようという作為があまり見えない。むしろかなり抑制された筆致で、だからフィクションでありながらどことなくルポルタージュの雰囲気を漂わせている。

グリシャムはノンフィクション小説の『無実』でも冤罪を扱っていたが、今回は同じ冤罪問題をフィクションの手法で描いたということかも知れない。実際、本書を読むとアメリカの司法制度には問題が多すぎると痛感する。

さっき書いた通り、本書は実在する団体をモデルにしている。原題の「Guardians」とは主人公の弁護士ポストが所属する<ガーディアン・ミニストリーズ>のことだが、このもっぱら冤罪の被害者救済を目的とする、すなわち冤罪で死刑判決を受け服役する囚人の無実を証明し、法廷で戦い、彼らをいわれのない刑罰から解き放つという崇高な活動に従事する<ガーディアン・ミニストリーズ>は、実在の団体<センチュリオンミニストリーズ>をモデルとしているということだ。こういう仕事がどれほどの困難と抵抗を伴うかは想像にあまりあるが、現実にこんなことをやっている人たちがいるのだ。彼らが40年間の活動で救済した無実の受刑者は、なんと63人。

本書がこの<センチュリオンミニストリーズ>の活動を是非とも広く世に知らしめたい、というやむにやまれぬ動機で書かれたことは間違いない。そしてそれをするにあたって、グリシャムはエンタメ風に誇張したりあざとく脚色したりすることを極力排除した。この団体にふさわしい敬意を払うために、堅実に、真摯に、ことの本質を歪めることなく伝えようとしたに違いない。本書の抑制されたタッチはそのあらわれである。

主人公の弁護士ポストは<ガーディアン・ミニストリーズ>に所属し、数多く寄せられる訴えの中から本当に無実の可能性があると思われる事案をピックアップし、調査し、無実と確信できたら裁判を起こす仕事をしている。まず、このポストのキャラクターがリアル。彼は完全に普通の人であって、書き方は少しハードボイルド風ではあるものの、クライム小説のヒーローらしい強烈なところはほとんどない。

彼は受刑者に会い、関係者に会い、裁判所に赴いて根気よく必要な手続きを申請する。調査やインタビューで彼をサポートするスタッフもいるが、そんなスタッフの中にはポストによって冤罪を晴らされた元受刑者もいる。本書はそんな彼らの地道な、根気のいる仕事ぶりを丁寧に描写していく。

それにしても驚くのは、こんなに重要かつ尊い仕事をしているポストやその他<ガーディアン・ミニストリーズ>のスタッフ達の給与があまりにも安いことである。給与だけでなく組織の予算の方もギリギリで、はっきり言うとみんな貧乏と戦いながら仕事をしている。一方で、冤罪を作り出している側の検察官や裁判官、あるいは冤罪が確定してから参入しておいしいところをさらっていく法廷弁護士たちは莫大な報酬を手にする。ポスト達に支払われるのはほんのおこぼれ程度だ。一体どういうことだ、と叫びたくなる。

にもかかわらず、彼らはこの団体で淡々と仕事を続けている。これが重要な仕事であり、社会に必要なものだと考えているからだ。

本書でポストが手掛ける冤罪事件は二つ。強姦殺人で有罪になったラッセルと弁護士殺害で有罪になったクインシーだが、メインはクインシーの方である。ポストは過去の法廷で大部分の証人が偽証したことを発見するが、その偽証のほとんどは警察が仕組んだものだった。たとえば、クインシーと同じ部屋にいた囚人に刑を軽くしてやる替わりにクインシーの「打ち明け話」を「証言」させる。あるいは、素行に問題がある女に逮捕されたくなければ証言しろと脅迫する(この女は証言した後町を去れと命じられる)。あるいは、法廷で検察寄りに証言することで喰っている「専門家」を連れてくる(彼の証言のいい加減さはポストが連れてきた大学教授を呆れさせる)。

それから予想されることだが、事件の担当検事に冤罪の申し立てを告げにいくとものすごい抵抗に遭う。検事は事件の真実など一顧だにせず、とにかく難癖をつけてポストの行動を妨害しようとする。一体この連中の頭の中はどうなっているのか。「いやこれフィクションでしょ」ではなく、実際にこうなのだ。グリシャムの『無実』その他の冤罪ノンフィクションを読めば分かる。しかしこの検事の難癖があっさり裁判官に却下されるところは、本書中数少ない溜飲が下がるシーンである。

本書を読んで強く感じるのは、裁判官や検事、警察官など法執行に関わる人々の、囚人や冤罪被害者に対する無関心ぶりである。おそらくはそれが日々の仕事であり、膨大な書類の中の一つでしかないために感覚が麻痺してしまっているのだと思うが、かなり公平な、誠実な関係者と思える人でさえ手続きにどれだけ時間がかかっても気にしないし、まして保身や金儲け優先の連中は猶更である。さっき書いた担当検事がその一例だが、しかしこんな人はどこの組織にもいる。普通の会社でも、仕事のあるべき姿などまったく気にせず保身だけで動く人間は多い。司法制度の中でも大多数がそうだと思うと絶望しかない。ちなみに、これは日本でも同じだとあとがきで書かれている。

しかしそんな中、信念と使命感をもって仕事をする女性裁判官やFBIエージェントが登場するとホッとする。ポストをはじめとする<ガーディアン・ミニストリーズ>のスタッフ達はもちろんだが、どこの世界にも、こういう相反する二種類の人々がいるのだなあと痛感する。あなたはどっちですかと問われた時、胸を張っていられるようになりたいものだ。

さて、そんな内容の本書は、ページターナーとしては正直言ってそれほどでもない。以前グリシャムが書いていた類のリーガル・スリラーと比べると地味でハッタリには欠けると思う。悪役側の描写がほとんどないのもその一因で、クインシー事件での一番の元凶は当時の警察署長なのだが、客観描写に徹しているため彼が逮捕された後の顛末はほとんど出てこない。だからとても淡々とした印象を受けるが、その代わりリアルで、現実の持つ重みと苦さに溢れている。

本書は、何も考えずハラハラドキドキして最後にスカッとしたいという人には向かないかも知れないが、冤罪問題に関心がある人にはかなりおススメである。

ちなみに、そんな抑制されたストーリーの中で、法廷で過去の証言を嘘と認めた元妻とクインシーが抱き合うシーンはひときわ感動的だった。彼らは長い間憎み合っていたのだが、その瞬間にすべてが洗い流される。いわゆるジェットコースター型のリーガル・スリラーではあまり見られないこういうシーンが、ルポルタージュ色の強い本書の特徴であり、読みどころだと思う。

 

眠狂四郎女地獄

眠狂四郎女地獄』 田中徳三監督   ☆☆☆

眠狂四郎シリーズ第10作目。市川雷蔵の狂四郎シリーズは全部で12作なので、かなり終わりの方である。本作が公開された1968年に雷蔵の癌罹患が発覚。そして翌年の1969年、この稀代の俳優は逝去する。享年37歳。それを知っていて観るからかも知れないが、本作の雷蔵は顔色がすぐれないように見える。が、もちろん狂四郎の立ち振る舞いは病の影を微塵も感じさせない。これまでと同じだ。

プログラムピクチャーである本作においてはストーリーはそれほど重要じゃないけれども、一応ざっと説明すると、ある藩で二人の権力者が対立し、争っている。彼らは覇権を握るために藩主とその娘・小夜姫(高田美和)を自分の屋敷に軟禁すべく奪い合っており、腕を見込まれた狂四郎は両方から助勢を頼まれるが、いつも通りにべもなく断る。父の下へ駆けつけようとする小夜姫自身からも助けて欲しいと頼まれるが、これも断る。例によってそんな狂四郎に次々と女が接近して来て、それが全部罠、というパターンで物語は進む。

それだけだと他のシリーズ作品とまったく同じだが、この映画の特徴は狂四郎の他に登場する二人の侍である。田村高廣伊藤雄之助が演じるこの二人の侍は、それぞれ対立する権力者側についている。が、だから敵対しているかというとそんなこともなく、彼らはボスに忠実というよりそれぞれの思惑で動いており、だからこの二人と狂四郎の三人が居酒屋でばったり遭遇し、なんとなく会話しながら三人バラバラに酒を飲んでいるなんてシーンもある。立場上は敵対しているが、本心では微妙にリスペクトし合っているようだ。が、いつかは戦う宿命にある。そんな三すくみの侍をこの三人が演じていて、間違いなく彼らの絡みが本作最大の見どころである。

もちろん、三人の俳優たちのテンションも良い。田村高廣伊藤雄之助、それぞれ個性的な侍を魅力的に演じている。田村高廣の方はクールな剣客で、いつか狂四郎と対決することを予感している。もう一方の伊藤雄之助は、藩の騒動を機に金儲けしようともくろむ狡猾な男で、妙に人懐っこく狂四郎と酒を飲みたがるが、いつも断られる。おまけに金がないせいで竹光を帯びている。しかも竹光で狂四郎と対決しようとするのだからわけが分からない。愛嬌があるが相当なクセモノで、得体が知れない男だ。

この三人の絡みが本作の目玉だとすれば、いつもおなじみのつけ合わせが狂四郎に接近する女たちである。「女地獄」という看板に偽りなく、狂四郎を騙して討ち取ろうという女たちが次から次へと登場する。まずは兄の仇を取ってくれと頼みにくる娘。例によって、「では操をいただこう」と狂四郎。すかした顔してスケベ―な奴だ。しかしちょっとその肌を見ただけで「男の手あかにまみれた体で生娘を演じようとしても無理だ」と、罠であることを見破ってしまう。一目肌を見ただけで生娘かどうか分かってしまうなんてすごい眼力である。

それから盲目の女。これは吹き矢が武器で、珍しくかなりのところまで狂四郎を追い詰める。武芸によって狂四郎が苦戦するのは相当にレアだ。結果的に狂四郎は女を倒すが、自分も目をやられてしまう。そしてそこにまた別の女が現れ、目が見えない狂四郎の手をひいてやる。なんとなくしみじみした雰囲気になり、女が辛い境遇を告白する。珍しく、迷惑がることもなくそれを聞いている狂四郎。そして、死んだ夫が忘れられないと泣く女に「抱いてしんぜようか」とのたまう。まるで「ハンカチをお貸ししましょうか」とでも言うみたいな口調で。いやーすごい、どんだけ自信があるんだこの男は。しかし一生に一度でいいから言ってみたいセリフである。

で、結局これも罠で、夫はまだ生きていて狂四郎を狙う刺客なのだった。狂四郎はあっさりと夫の両目を斬り、「これからは夫の手をひいてやれ」と女に捨て台詞を残して去る。

そしてもう一人、飲み屋の女。これはなんだか顔立ちがあだっぽいというか色っぽい水谷良重という女優さんで、彼女は本当に狂四郎に惚れてしまう。狂四郎もまんざらでもなさそうだ。この女優さんは『眠狂四郎多情剣』にも出ていたが、本作の方がしっかり狂四郎と絡んでいる。

そしてクライマックスは雪の中での剣劇となる。狂四郎、成瀬辰馬(田村高廣)、野々宮甚内(伊藤雄之助)の三人の侍が全員揃っての立ち回りだが、雪景色に風情があってかなりかっこいい。そして父と子の確執を宿命づけられた辰馬の最期が哀れだ。辰馬の父である権力者は小沢栄太郎が演じているが、本作ではいつもの狸おやじっぷり全開とまではいかず、今ひとつインパクトに欠けるのが残念。

そんなわけで、シリーズの中では水準作のこの映画だが、田村高廣伊藤雄之助が好きな人は観て損はないだろう。

犯人に告ぐ3 紅の影

犯人に告ぐ3 紅の影』 雫井脩介   ☆☆☆☆

あの素晴らしく面白かった『犯人に告ぐ2 闇の蜃気楼』の続編。前作で斬新かつ緻密な知能犯ぶりを見せつけ、結局最後まで逃げ切ったリップマンこと淡野と巻島が、本書でついに対決する。いやが上にも期待感が高まってしまう。

前作では、振り込め詐欺の応用というこれまでにない誘拐事件のスキームを編み出し、警察と世間を意のままに攪乱した淡野だったが、今回の題材はネットテレビと恐喝である。恐喝と言うとなんだか芸がないように聞こえるが、単なる恐喝ではなくいわばスパイによる情報収集を最大限に活用した上で、誰も予想しなかった金の所在をピンポイントで狙うという、やっぱり淡野らしい天才的ひらめきを感じさせる犯罪である。これ以上言うとネタバレになってしまうので止めておく。

ネットテレビというのは、リップマンの捜査がなかなか進まない警察に対し急成長するIT企業のCEOが活用を持ちかけてくる。普通のテレビ番組と違って視聴者とのインタラクティブなやりとりが可能だし、役に立つかも知れない、というので巻島が出演するが、案の定、アバターを使ってリップマン本人が番組に参入してくる。刑事と犯罪者が番組の中、ネット越しに対話し、腹を探り合い、互いの思惑を読み合うというスリリングな状況に視聴率はうなぎ上り。巻島と淡野もこの番組でカマをかけたりミスリードしたりとギリギリの駆け引きを繰り広げながら、裏では新しい犯罪計画が進行する。大体そんなところが本書の趣向だ。

ただし、前半はかなりのページ数が淡野の身辺描写に割かれる。前作の淡野は正体不明で非常にミステリアスな存在だったが、本書では普段の生活ぶりから少年時代、裏の世界に入ったきっかけ、そして女性関係までが詳しく描かれる。そしてある女性と関わったことで淡野の心境が変化し、犯罪の世界からの引退を考えるようになり、「あれ? この話どうなるの?」と読者が戸惑い始めたあたりで新しいシノギ、つまり犯罪計画が持ちかけられる。そこからようやくクライム・ストーリーが始動する。

という流れからも分かるように、本書は実質淡野が主人公である。天才的犯罪者としてだけでなく、彼を取り巻く人々との関係性、つまり男として、友人としての顔も描かれていくが、虚無的、冷淡でありながらもどこか矜持を感じさせる彼の立ち振る舞いは、ヒールでありながらもある意味魅力的だ。

後半では新しいシノギをめぐって巻島と淡野が対峙することになるが、今回のシノギは前作の誘拐ほど複雑ではなく、仕掛けが豊富でもない。どこから金を獲るかというアイデアこそ大胆だが、それ以外はとってもシンプルな恐喝計画である。ただ先に書いたようにその合間にネットテレビでの腹の探り合いが挟まるので、そのあたりはとてもスリリングだ。巻島の反応を見て淡野はこう考えたが実は・・・みたいな面白さが横溢する。ページを繰る手が止まらない。

そして大きな波乱を含みつつ事件はようやく収束していくが、私見では、本書の弱点はこの収束部分にある。前作の誘拐事件での淡野の二重三重に張り巡らせたバックアッププラン、裏の裏をかく知略の冴えを知る読者にとって、今回の事件の詰めの甘さは驚きだろう。あの淡野がこんなことで失敗をするだろうか、と思ってしまう。どんな失敗かは書かないが、あまりにうかつな失敗であり、そして実際そこからすべてが瓦解していく。事前の読みも甘い。おそらく、それが引退を考えた淡野の現在の姿であり、だからすっぱり引退すべきだったということなのかも知れないが、読者としてはやはり前作同様にキレキレの淡野と巻島の対決を見たかった。

そんなこともあって、前作のように知能犯と警察の丁々発止の駆け引きがメインというよりも、淡野というアンチヒーロー的な犯罪者の肖像を描いた小説、という印象を受ける。犯罪者としてではなく一人の人間としての顔で締めくくられるラストの哀感が、その印象を強めている。

ところで淡野の物語は本書で完結するが、ラストはまたしても次への布石を感じさせる、すっきりしない終わり方だ。ワイズマンとポリスマンがまだ残っていて、特に本書で登場したワイズマンは淡野以上のアクの強さと強敵感を醸し出すヒールである。期待に胸を膨らませて、『犯人に告ぐ4』を待つことと致しましょう。

マルサの女2

マルサの女2』 伊丹十三監督   ☆☆☆☆

久しぶりに手持ちのDVDを引っ張り出して鑑賞。前作『マルサの女』は脱税者と国税局査察部の戦いというこれまでにない題材、徹底したリサーチにもとづく圧倒的情報量と蘊蓄、そして達者な演技陣による芝居の妙味で冴えたエンタメの傑作となり、伊丹監督の才覚とユニークな作劇術を広く世に知らしめた。私もこの映画には大いに感嘆したクチで、最高に痛快なエンタメでありながら知的な愉しみに溢れた大人っぷりが何より嬉しかった。

さて、その続編ということで本作にも大いに期待したし、また映画館で最初に観た時にはその毒気と重厚感に圧倒されたものだが、その後繰り返しDVDで観た現在の感想を言えば、やっぱり一作目の方が出来がいいということだ。確かに毒気や重厚感、更には観客への挑発度はこっちの方が上だと思うし、それを理由にこちらの方が傑作と評する人がいるのも知っているが、私としては総合点で前作の方が勝っていると考える。全体のバランス、と言ってもいい。この『2』では題材の過激さはアップしたものの、その分えげつなさが増し、一作目にあった洒脱さと適度な軽みが失われている。

そしてその洒脱さと軽みは、大人のエンタメたる伊丹十三作品においては毒気や重厚さよりもさらに重要な、欠くべからざる要素だ、というのが私の意見だ。『2』にも伊丹監督らしいウィットがところどころに見られるが、やはり一作目に比べるとぐっと少なく、弱い。たとえば終盤、鬼沢が板倉の取り調べを受ける前に窓際で同じポーズを取ってしまうところなんかがその一例で、ついニヤッとしてしまうが、この映画においては全体の陰惨な雰囲気と不釣り合いなのである。つまり陰惨さと毒気が突出した結果、一作目で見せていた重厚さと軽みの美しいバランスが崩れ、観終わった後に胸やけがするような消化不良の印象を残す。

とはいえ、主演の三國連太郎の迫力は素晴らしい。というか、この人が発散する精気と圧迫感はただ事ではない。私はこの映画で三國連太郎の凄さを思い知らされたが、特に取調室で「日本がどうなってもいいのか!」と津川雅彦と大地康夫に迫るシーンは圧巻の一言だ。「私の不徳のいたすところです」なんてしおらしい態度から豹変するのもびっくりするが、あの何かに取り憑かれたような目がおそろしい。鬼沢は冷酷で悪辣かと思えば、夜な夜な断崖絶壁を支えている悪夢にうなされるみたいな繊細さ、悲愴さも持ち合わせた複雑なキャラクターで、三國連太郎はそんな鬼沢を完璧に演じきっている。

伊丹監督にしてみれば、一作目の山崎努が素晴らしかったので続編には三國連太郎クラスの俳優をもってこなければつとまらなかった、という事情もあるだろう。いずれにせよ、三國連太郎の起用がこの映画のクオリティを決定づける最重要ポイントであることは間違いない。

さて、映画の前半は鬼沢メインで進み、地上げの手口や手法をじっくり見せる。そして途中でマルサメインに切り替わる。地上げの手口とはすなわち、暴力団を使った抵抗住民への懐柔または脅迫である。ヤクザが乗り込んでマンションの環境を悪化させ、カメラマンに反撃されるといったん折れたふりをして金の受け渡しを盗撮、それをネタに脅迫する。クセ者の大学教授にはツツモタセで対抗し、頑固な商店主にはホラー映画のメイク技術で作成した手首を見せて脅す。いやとんでもないやり口だ。あんなことやられたら一般市民には到底対抗できない。

で、結果的に暴力団地上げ屋に億の金が入る。また、鬼沢は地上げ屋の隠れ蓑として宗教法人を使っているが、その宗教法人の内部の様子も出て来る。ここでマルサの板倉(宮本信子)その他が登場し、鬼沢の宗教法人に税務署と査察部が注目していることも描写されるが、なかなか尻尾を掴むことができない。

そして後半、マルサメインに切り替わってからは前作のメンバーが再登場。上司は津川雅彦、同僚は大地康夫と桜金造ニューフェイスとして板倉の下につくのが東大出の益岡徹。課長は前回の小林桂樹から変わって、丹波哲郎。一気にGメン色が濃くなった。

板倉が鬼沢の「天の道教団」を訪問し、教祖の毛皮のコートをとっかかりに斬り込むシーンは痛快だが、信者たちに追い出されてしまうのは残念だ。その後マルサチームはソープランドに入ったり変装して「天の道教団」に潜入したりと辛抱強く調査を続け、ようやくガサ入れとなる。ところが鬼沢はガサ入れ後もなかなか手ごわく、決め手になるブツが出ない。焦るマルサチーム。この過程での鬼沢の取り調べシーンは、前述した通り強烈だ。

やがて鬼沢の秘密のノートから突破口が開け、数人のヤクザがトカゲの尻尾きりで死体となり、最後に鬼沢もトカゲの尻尾だったことが分かって陥落する。没収された秘密のノートはあのまま放っておけば気づかれなかったんじゃないかと思うが、手下のヤクザ(きたろう)が侵入して取り返そうとした結果、かえってマルサの注意を引いてしまう。それにしても、最近じゃユーモラスな役柄が多いきたろうが完全に目つきの悪いヤクザで出て来るのが面白い。まだ若いし、まるで別人だ。

そしてラストは、鬼沢の上にいた政治家達には手が届かないくやしさを滲ませて終わる。社会問題告発型の映画としてはこれで構わないが、エンタメとしては消化不良とも言える。また、鬼沢が隠していた金ぴかの墓の前で哄笑する演出もどうもこけおどし的で、個人的にはあんまり好きではない。前作の、板倉と権藤が夕焼け空の下で語り合う抒情的な結末とは、だいぶ趣きが異なる。

まあそんなこんなで私は前作の方に軍配を上げるわけだが、もうひとつ不満を言わせていただくと、この映画では暴力団が目立ち過ぎである。前作では、例えば会社をわざと倒産させたり友達に貸したことにしたり宝くじの当たり券を買ったりと、(暴力団も出てきたがそれ以外にも)面白い脱税の手練手管を見せたのに対し、今回は暴力団の恫喝や恐喝ばかりだ。これもまた本作の陰惨さの原因の一つで、まるで後の『ミンボーの女』の予告のようである。

それもまた、この時点での伊丹監督の興味のありかを示していてフィルモグラフィー的には興味深いかも知れないが、私としては前作に引き続き、もっとウィットに富んだマルサの活躍と人間ドラマを描いて欲しかった、と思うのである。