赤い魚の夫婦

『赤い魚の夫婦』 グアダルーペ・ネッテル   ☆☆☆☆★

メキシコの作家の短篇集を読了。人間のドラマを、何かしら人間以外の生き物と絡めて描いた短篇が五つ収録されている。面白い趣向だ。生き物とは魚、昆虫、猫、菌類、蛇などでとても幅広いが、ストーリーとの絡め方が非常にうまい。生き物が時には人間の状況のメタファーとなり、時には対旋律となって物語に緊張をもたらす。

それから本書の大きな特徴の一つは、メキシコの作家ということから予想されるような土着性、ラテンアメリカ文学的な匂いがほぼいっさい感じられないことである。それぞれの短篇の舞台がとても国際的で、フランスが舞台の短篇も二つあるし、メキシコ舞台の短篇でも色んな国の人間が登場するので結果的にインターナショナルな雰囲気になる。またストーリーや登場人物の言動が世界のどこの都市であってもおかしくないように、いわば普遍性をもって描かれているために、そういう印象を与えるのだと思う。

五篇それぞれについて簡単に紹介したい。まず最初が表題作の「赤い魚の夫婦」。妻が妊娠し、これから親になろうとしている若い夫婦の間にだんだんと不協和音が育っていく。「赤い魚」とは二人が友達からプレゼントとしてもらった二匹のシャム闘魚のことで、二人が心ならずも飼っているこの魚の振る舞いや性質が、夫婦の間に醸し出される不協和音と微妙にリンクして物語のテーマを浮き彫りにする仕掛けになっている。巧妙だ。

妊娠中の女性の気持ちとはこうなんだろうなあ、と男の私でも思わされる生々しい不安感や心の揺れ、夫のふとした心無い言葉によって引き起こされる悲しみや苦しさが精妙に描かれることで、読者をヒロインの葛藤に引き込んでいく。最初にこの短篇を読んだ時、とにかく私が感じたのはデリケートな人間関係を端正に、ソフトに、しっかり抑制しつつも的確に表現できる筆力の確かさだった。グアダルーペ・ネッテルが本書を発表したのは40歳ぐらいの頃だと思うが、とても洗練された作家の技を感じさせる。

次の「ゴミ箱の中の戦争」は、両親の間のトラブルで伯母の家庭に預けられた少年が主人公。伯母の家庭は少年の家より裕福で快適だが、少年はその中で孤独感に苛まれる。そんな状況の中、その家でゴキブリが増えてきて家族を悩ませる。やがて彼らはあっと驚く撃退法を考案する...。

これも少年が預けられた家族の中の思惑の交錯や、少年の親と伯母の関係などデリケートな描写に作者の筆が冴えるが、正直いってゴキブリが嫌いな人にはきつい一篇だ。私はちょっとやばかった。ただし、必要以上にグロテスクなわけではない。これ以上の説明は控えておきます。

三つ目の「牝猫」は、猫を雄と牝の二匹飼うことになった女子学生の物語。牝猫の方が妊娠して喜んでいると、自分自身も思いがけなく妊娠をしていることが判明する。ちょうど同じ時に希望の大学院へ行くための奨学金を提示された彼女は、おなかの子供をどうするのか重い選択を迫られる。

これはもう巧緻という他はない短篇で、作者のストーリーテリングの才能が遺憾なく発揮された珠玉の一篇だ。猫の妊娠とヒロインの妊娠がダブるのは言うまでもないが、猫と人間のリアクションの違いがテーマを見事に炙り出し、そして猫を観察しながら葛藤するヒロインの予測のつかない行動が、読者を異様なスリルへと引き込んでいく。あまりのうまさに、私はこの短篇を読みながら常ならぬ興奮を覚えてしまった。文章がうまい、感性がユニーク、アイデアが面白いなど色んなタイプの作家がいるが、ドラマツルギーをこうまで緩急自在に操る作家の小説を久しぶりに読んだ気がする。

次の「菌類」は猫や魚とはだいぶ趣きが違うが、人間の身体に取りつく菌類のことである。ピアニストの女性と指揮者の男性が仕事の旅行をきっかけに不倫の愛に陥り、だんだんと深みにはまっていく。菌類はざっくりいうと二人に取り憑く不倫愛のメタファーだろうか。言ってみればありがちな不倫話だけれども、やっぱり登場人物たちの心理の揺れの描写がうまくて引き込まれる。

最後の「北京の蛇」は、中国生まれフランス育ちの父親が北京に旅行し、人が変わったようになって帰ってくる。理由は分からない。自分だけの部屋を作り、突然そこで蛇を飼い始める。息子と母親は、父親に何が起きたのか調べようとする...。

ミステリ的な仕掛けが施されているが、最後の謎解きはなんとなく想定内でそれほどのインパクトはなかった。しかしながら一家が住むフランス、中国生まれの父、北京への旅行とこれまた国際色溢れる作品で、この人の作品を読んでいると現代人はみんな世界中を飛び回りながら暮らしているような錯覚を覚えてしまうなあ。

さて、以上五篇だが、私のフェイバリットは間違いなく「赤い魚の夫婦」と「牝猫」の二篇である。この二篇の素晴らしさはほとんど筆舌に尽くしがたい。グアダルーペ・ネッテルは発想の面白さ、的確な人物描写力に加えて、マジカルなストーリーテリングの才能を持ち合わせている。彼女の短篇はどれもとてもなめらかで、こなれていて、デリケートな情感に溢れ、抑制がきいていて、しかも驚くほど鮮烈なドラマツルギーに溢れている。この作家の他の短篇集も是非読んでみたい。

眠狂四郎多情剣

眠狂四郎多情剣』 井上昭監督   ☆☆☆

このところ映画といえば眠狂四郎シリーズのことばかり書いているが、自分で所有するDVDを取り出して順に再見しているのでこうなっている。別に熱狂的なファンじゃないのでDVDもいくつかしか持っていないが、初見時はストーリーもよく似ているしごっちゃになって違いが分からず、面白みもピンと来なかったが、だんだん慣れてくると作品ごとの違いやディテールが愉しめるようになる。そうすると面白くなって、つい続けて観てしまうというループに入ってしまった。

さて、本作はシリーズ第七作目だが、冒頭からいつもと様子が違う。いきなりお面をかぶった菊姫が登場し「狂四郎を殺せ!」と連呼する。いつもはどこかの藩の騒動に巻き込まれるパターンが多いのだが、今回は珍しく最初から狂四郎自身の身に降りかかる災厄の物語なのである。しかも狂四郎を狙うのは『女妖剣』に出てきた菊姫で、狂四郎に恥をかかされたことを恨んで復讐しようとする。つまり、これは続編なのである。しかも前作の続編ではなく、今さら第四作『女妖剣』の続きだという。こんなゆるい姿勢も、まあ嫌いじゃない。

といっても、『女妖剣』を観ていない人でも過去の経緯が分かるようにちゃんと説明が入る。だから話が分からないということはないはずだ。

本作の主要なキャラはまず菊姫(毛利郁子)。顔が醜いというのでいつも能のお面をかぶっている。もちろん、これが狂四郎を殺そうとする本編の黒幕。それから仇を探して旅しているという侍、典馬(中谷一郎)。彼は通りすがりで知り合いになり、何かと狂四郎に近づいてくる。それから狂四郎に助けられるが、父親を侍に殺されたとかで侍全般を憎んでいる少女、はる(田村寿子)。なりゆきで狂四郎の被保護者となる。大体これぐらいだ。

さて、菊姫は疾風組という刺客集団を使って狂四郎を狙うので、次々と狂四郎を死の罠が襲うことになる。まず女郎屋で待ち伏せし、大勢で襲いかかる。が、正攻法ではもちろん狂四郎にはかなわない。次に、「眠狂四郎これを犯す」という立札とともに女が殺される。狂四郎は身の証を立てるためにその離縁された夫のところへ行くが、夫は狂四郎を斬ろうとする。狂四郎は死んだ女の同僚、おひさ(水谷良重水谷八重子)に金を払って聞き込みをし、実は夫が真犯人であることを突き止めて彼を斬る。次に「眠狂四郎これを犯す」という看板を背負って歩く狂女が登場。狂四郎はあとをつけていってやっぱり襲われる。次に狂四郎に協力していたおひさにも菊姫の息がかかっていたことが分かる。次に狂四郎が保護していた少女はるが誘拐される...とどんどん続いていく。まあ、いつものパターンである。

本作の特徴をあげるとすれば、まずは映像へのこだわりだろう。カット割りや構図にやたらと凝っている。そういうのが好きな人は愉しめるだろう。そして演出は間を長くとる傾向があり、そのせいか全体に静謐な印象を受ける。

反面、ストーリーや脚本は弱い。色々と穴がある。一番残念でもったいないのは曲馬の扱いである。このストーリーにおいては彼が狂四郎と同等の存在感を発揮しなければならないのに、途中から曖昧になっていく。そもそも何のために正体を偽っていたのか分からない。また狂四郎にさかんに円月殺法を教わろうとするが、あれは探りを入れていたのだろうか。最初は結構味のあるキャラに思えたので、結局ただの菊姫の手下になり下がってしまうのは残念だった。

水谷良重の存在も中途半端だ。彼女は狂四郎に惹かれていたのかどうか曖昧だけれど、それはいいとしても、結局途中で逃げていってそのまま終わりである。十手持ちまで出て来ていた狂四郎の濡れ衣話もフェードアウトしてしまうし、クライマックスでの人質はるの救助方法もいい加減だ。最後の最後、敵側の目付が出てきて狂四郎に斬りかかろうとして返り討ちにあうのも投げやりである。なんで目付なんていう高官があんなムチャな行動に出るのか。話を安っぽくしてしまうだけだ。

という具合で、全体のストーリー展開はかなり安直である。まあそんな事は考えずに、次々に狂四郎に降りかかる罠とその顛末を楽しく観ていればいい映画なのだろう。凝った映像が好きな人はそこに注目して観るのもいい。

そしてラスト、悪の菊姫一派は滅び、はるは助かる。そして狂四郎とはるが二人並んで歩いていくという、これはまた珍しいくらいの勧善懲悪、明朗闊達なハッピーエンドである。眠狂四郎シリーズはどこか虚無の余韻を残して終わることが多いので、このエンディングには軽く驚いた。

ル・クレジオ、映画を語る

ル・クレジオ、映画を語る』 ル・クレジオ   ☆☆☆☆

本書はタイトル通り、イタリアのノーベル賞作家ル・クレジオが映画への愛を語る本である。これぐらいビッグな作家が映画について情熱的に語る文章を読むのは言うまでもなく、書物と映画を同時に愛する私のようなファンにとっては、ほとんど恍惚となるぐらいに幸福な体験であります。

さて、本書はAmazonの紹介文には「半自伝的エッセイ」とあるが、「自伝」部分のウェイトはそれほど大きくなく、自分と映画とのかかわりを描いたところに多少著者の過去がうかがえる程度だ。たとえば子供の頃に祖母が手回し式映写機を持っていて、それでハロルド・ロイドの映画を観たなんてことが書かれている。本書は基本的には映画への愛を語るエッセイで、ル・クレジオの自伝的要素はあんまり期待しない方がいい。

では、映画についてはどんな書き方がなされているのかというと、たとえば日本の映画評論家が書く映画エッセイみたいなものとはかなり違う印象を受ける。自分が好きな、あるいは気になる個別の映画についてきままに語るというよりも、映画というものの歴史を意識し、映画という芸術全体を鳥瞰的に眺める姿勢が常に感じられる。つまり最初に映画の起源を語り、次に日本映画を語り、イタリア映画を語り、イタリア映画を語り、インド映画や韓国映画を語る、という具合に進んでいく。

要するに「映画っていいもんですよね」と悦に入る趣味的なエッセイではなく、「映画とは果たしてどんな芸術なのか」という問いかけから始まり、それを創作者の視点から考察していくという真摯な姿勢がある。そこが本書の大きな特徴だと思う。

私たち日本人にとっておそらくもっとも興味深いのは、「戦争 あの頃は映画といえば」の章だろう。あの頃映画といえば日本映画のことだった、とル・クレジオは明確に断言する。これはもう、日本人としては胸が熱くならざるを得ない。そして彼はいくつもの日本映画や監督たちを取り上げ、熱っぽくリスペクトの思いを語るのだけれど、彼の最上級の賛辞が捧げられるのは溝口健二監督である。作品としては、特に『雨月物語』。やっぱりフランス人は黒澤でも小津でもなく、溝口が好きなんだなあと思う。

ル・クレジオは『雨月物語』を観て初めて映画が芸術であることを理解したと言い、『雨月物語』を観る時自分は山間の村に住む日本人になっていると言う。つまり、この映画には普遍性と、日本を知らない外国人をも物語世界に引きずり込む吸引力があるとはっきり言っている。『雨月物語』の銀獅子賞受賞を、ただ海外でエキゾチズムが受けただけだなんて斜めに見る日本人もいるようだが、そういう輩にこれを聞かせてやりたいと思う。

しかし、それにしてもだ。この章を読むと当時の日本映画のクオリティの高さには愕然とするしかない。一体、あの時代の日本映画の凄さとは何だったのだろうか。溝口がヴェネツィア映画祭で二年連続銀獅子賞を獲り、同じ年に黒澤明『七人の侍』で銀獅子賞を獲っている。同じ頃活躍していた小津の映画もやがて世界を席巻し、『東京物語』が「史上最高の映画トップ100」の監督投票部門一位に選ばれ、世界中の映画監督からリスペクトされている。とんでもない偉業である。なぜあの時期の日本において、あれほどまでに研ぎ澄まされた芸術作品が次々と生まれたのだろうか。それを可能としたファクターは一体何だったのか。不思議でしかたがない。

さて、日本映画に触れた後著者はイタリア映画を取り上げ、パゾリーニ『アッカトーネ』やアントニオーニ『情事』について書いている。それからイラン映画に移り、キアロスタミ『クローズ・アップ』などについて。ニセ監督事件の犯人その人が映画に出て自分の役を演じ、更に本物の映画監督まで出演してしまうというこの映画の虚構ストラクチャーの複雑さに、ル・クレジオも興味津々のようだ。

そしてインド映画にも言及。しかしル・クレジオボリウッド映画にも詳しいことには驚いた。私も映画はそれなりに観ている方だと思うけれども、ボリウッド映画なんてほとんど知らない。そして終盤になって韓国映画が取り上げられる。この章は他とのバランスを考えてカットされたとあとがきにあるが、ということは、もともとは他の章より多くのページを費やして韓国映画が論じられていたのかも知れない。

それにしても、本当にル・クレジオが言うように韓国映画は未来の映画なのだろうか。私もいくつか韓国映画の傑作は知っているけれども、あまりたくさん観ていないので良く分からない。が、少なくとも今勢いがあることだけは事実だろう。それにしても、こうやって色んな国の映画が盛り上がったり衰退したりするのは、一体何なのだろうな。単純に国の経済力というわけでもなさそうだ。誰か考察してエッセイでも書いてくれないだろうか。

さて、ざっとこんな内容の映画エッセイなのだが、読み通して強く感じるのはよくある映画評論家や映画マニアのエッセイと違って、映画というものの見方や存在意義を常に根本から問いかけ、繰り返し考え直していこうという姿勢があることだ。映像で物語を語るとはどういうことか、それが観客にどう作用するのか、文字から入る小説とはどう違うのか、というような「そもそも論」にいつも目を向ける。そういうことは自明として疑わず、ショットや被写体深度などテクニカルなディテールについてマニアックに得々と語る、というような映画マニア的態度とは対極にある姿勢だ。

そんなわけで本書は、全体としては一人の創作者であり練達の作家である著者の精神に映画がどう影響を与えたか、何を考えさせたか、ということを見るエッセイと言っていいと思う。たとえばキアロスタミの『クローズ・アップ』は俳優や映画製作というものの根源を問いかけている、のようなコメントに、ル・クレジオのそんな姿勢を感じ取ることができる。

 

星の時

『星の時』 クラリッセ・リスペクトル   ☆☆☆☆★

作者は1920年ウクライナで生まれ、ブラジルに移住し、ポルトガル語で数々の作品を書き、1977に死去した女流作家である。本書はそのクラリッセ・リスペクトルが発表した最後の小説で、著者が死去する直前の1977年に刊行された。

非常に特色がある小説で、こんな小説は他で見たことがないなあと驚きながら読んだ。ストーリーは比較的シンプルで、ホットドッグばかり食べている貧しい娘マカベーアが主人公。彼女がオリンピコという男と出会ってつきあったり、その男を職場の同僚に獲られたり、占い師のところへ行ったりするエピソードがあるが、実のところこの小説においてそういうストーリーはあまり重要じゃない。

まず大事なのは、この娘マカベーアの物語をロドリーゴ・S・Mという男性作家が書いている、という設定である。つまり真の著者であるクラリッセ・リスペクトルは、ロドリーゴという架空の作家の後ろに隠れている。この物語はフィクションでありそれを書いているロドリーゴも虚構の存在なので、つまり本書の虚構のレイヤーは二重になっている。マカベーアが登場する小説世界の外にその物語を書いているロドリーゴの世界があり、更にその外に本当の作者クラリッセ・リスペクトルがいる現実世界がある、というわけだ。架空の作者名で書かれた小説は珍しくないと思うが、なぜ本書においてそれがとても重要かと言うと、虚構の作家ロドリーゴ・S・Mが非常に雄弁なのである。実際、小説の主人公マカベーアよりそれを書いているロドリーゴの方がよほど自己主張が激しい。

彼はマカベーアという娘の物語を語りながら、同時に自分のこと、この小説のこと、そして小説をどう書くかなどについてものすごく饒舌に、偏執狂的なほどにくどくどと語るのである。彼の想念はあっちこっちに飛び、ジグザグに移動し、逸脱し、行ったり来たりし、進んだり戻ったりする。そういう意味で、本書はマカベーアの物語であると同時に小説を書いているロドリーゴの物語だとも言える。本書最大の仕掛けはこれだ。シンプルながら、実はきわめて意味深長な多重構造となっている。この構造そのものが『星の時』という作品なのだといってもいい。

本書を手にする読者は、まずロドリーゴの挨拶から読み始めることになる。ロドリーゴはこれから小説を書こうとしていること、それがどんな小説になりそうか、どんなことを目論んでいるか、を滔々と説明する。が、その説明は全然ロジカルでも分かりやすくもなく、さっきも書いた通り堂々巡りしたり逸脱したりと非常にとりとめがない。しかも、そうした前置きが一体いつまで続くのかと思うほどダラダラ続く。「これから娘の物語を語る...」みたいな文章が何度も出て来るのでもうストーリーが始まるかと思っていると、いつまでも始まらない。

どうなってるんだと苛々してくるほどだが、それがすでにこの小説の一部なのである。貧しい娘が主人公の小説を書こうとしているロドリーゴの内面、その逡巡、躊躇、あるいはすぐにあさっての方向に漂い流れていくその想念。こういうものが、本書のテキストのかなり多くの部分を形作っている。

やがてマカベーアの物語が始まるが、物語が始まった後も作者のロドリーゴはすぐに顔を出して何やかやと口を挟んでくる。プロローグ部分と基本的に変わらない。しかも、文体がまた独特である。クラリッセ・リスペクトルの文章は晦渋と言われているらしいが、確かにストーリーを語る場合の文章にしても具体的というよりとても観念的で、普通のエンタメ小説みたいに、目に見えるような場面描写はほとんど出てこない。しかもロドリーゴのプロローグ部分と同じく、異常なまでに散漫に逸脱を繰り返す。メタファーもきわめて観念的で、分かりやすさなどまったく念頭にないが如くに自己耽溺的だ。読者に何かを伝えるためにではなく、ただ文章を書き続けるために書いているような印象すら受ける。

が、そうしたテキストの揺らぎが面白い。というより、そこを面白がる以外に本書を愉しむ方法はない。だからストーリーを追う以外の興味を持てない読者にとっては、本書は退屈で冗長な繰り言がいっぱいつまった本でしかないだろう。そう考えると、本書がいかにユニークな小説なのかが分かる。これこそまさにエクリチュールの質感を愉しむ小説であり、物語の筋に依存した従来の小説とはまったく別物といっていい。

何だか小難しそうだなと思われるかも知れない。私も最初はなんだこれと戸惑いながら読んだが、やがてこの小説の目指すものが見えてくると、そこに身を委ねることによってロドリーゴの、あるいはクラリッセ・リスペクトルの観念やイメージが頭の中で万華鏡みたいにぐるぐる回り始め、それが快感になってくる。要は「ストーリーは一体どうなってるんだ?」とか「はやくこの脱線終われよ」などとイラつかず、その脱線や逸脱が実はメインディッシュなのだと思って、ぼーっとただ文章に身を任せる読み方をすればいいのである。

訳者あとがきにも本書を形容して晦渋、哲学的という言葉が出て来るが、マカベーアとオリンピコの会話など意外にコミカルな部分もあるので、そこまで読みづらい小説と警戒する必要はないと思う。ロドリーゴの冗長な語りもそうで、慣れれば結構面白い。少なくとも本書は小説として型破りで、自由奔放であり、真にオリジナルな感性に貫かれている。私が思うに本書は現実を模倣するのではなく、言葉の力で現実を変容させる類の文学で、いわば言葉によって現実を壮麗化する小説である。このように「現実を壮麗化する」言葉を操る作家として、私はアルチュール・ランボージュリアン・グラックブルーノ・シュルツあたりを思い出した。

そしてそれは、作者であるクラリッセ・リスペクトルも十分に意識していたことだと思う。なぜなら彼女は自分の作品を訳す翻訳者に対して、「訳す時は奇妙に見えようとも文章をそのまま、カンマの位置まで正確に訳すよう求めた」と言う。ただしポルトガル語から日本語への翻訳ではそれができないので、分かりやすさを優先させたと訳者あとがきには書かれているが、しかしクラリッセ・リスペクトルがエクリチュールのリズム、流れ、構造を最大限重視していたことは間違いない。もちろん、それが彼女の芸術の核心だからだ。

「現実を壮麗化する」タイプの小説家にはもちろん言葉使いとしての天賦の才と真の独創性が必要だけれども、クラリッセ・リスペクトルはそんな第一級の作家達の中でも、相当にユニークな感性と方法論を持った作家だと思う。