リャマサーレス短篇集

『リャマサーレス短篇集』 フリオ・リャマサーレス   ☆☆☆☆☆

待ちに待ったリャマサーレスの短篇集。これまで読んだ『黄色い雨』『狼たちの月』『無声映画のシーン』いずれも名作揃いだったのでもちろん大きく期待していたのだが、その期待はまったく裏切られなかった。なんと素晴らしい短篇集だろうか。すべての読書家に全力でおススメしたい。

あとがきを読んで驚いたが、本書にはリャマサーレスの現時点における全短篇が収録されているそうだ。あまり短篇をたくさん書く作家さんではないようだし、自分でもそう書いているが、これで全部というのは嬉しいような悲しいような複雑な気持ちだ。本書で全部読めると思うと嬉しいけれども、もうこの他にはないと思うと悲しい。

短篇集二冊分の作品と単発で発表されたものが年代順に並べられていて、第一短篇集が「僻遠の地にて」、第二短篇集が「いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ」となっている。変わったタイトルだ。特に第二短篇集は。そして単発作品が最後の「水の価値」。全部で21篇あるので、特に印象に残った短篇についてコメントしたい。

まず最初の「冷蔵庫の中の七面鳥の死体」は、思いがけずユーモラスなトーンで書かれた奇想天外な事件で、そのおおらかな奇想天外ぶりがガルシア=マルケスの短篇を思い出させる。同じスペイン語圏ということもあるが、語り口や題材に似た感触がある。語りは一人称だが事件の外にいる部外者が語り手で、使用人らしい彼が主人夫婦の人生を回想する形になっている。こういう回想形式もやっぱりマルケスがよく使う手だけれども、この形式によって、三人称的な淡々とした語りの中に時折微妙な主観をまじえることが可能になっている。

話の内容はほぼタイトル通りだが、死体になるのは七面鳥だけではない。シュールでもマジックリアリズムでもないが、かなり突拍子もない事件で、だから普通に読み物として面白い。プロットは込み入っておらず非常にシンプル、描写や語り口も簡潔。しかし題材の非日常性が悲劇的かつ残酷で、加えてガルシア=マルケス風におおらかなユーモアもあるという作品。曖昧さをはらみつつ行きつ戻りつする文体が心地よい。

「自滅的なドライバー」もユーモラスな一篇で、シチュエーションコメディかと思うほどだ。トラックのせいで自分の車を出せなくなった男がトラックを勝手に動かそうとする話で、だんだんドツボにはまっていく過程が細かく描かれる。はたから冷静に見ているとおかしいが、もちろん本人は必死である。リャマサーレスってこんな短篇も書くんだなあ、ととても意外だった。アイデア一発、まるでスティーヴン・キングみたいだ。少なくとも作品を読む限り(つまり取り立てて深読みをしなければ)、テーマ性がどうこうということはまったくなく、ほとんどナンセンスな事件の描写である。ラスト一行がまたさりげない笑いを誘う。

「父親」はまた全然タイプが違って、しんみりした話。要するに子供の目から見た親の離婚話だが、ストーリーはないも同然で、ほぼ文体とメタファーの力だけで作品として成立している。最初の方に書かれている「黒熊」と母親が最後に重なるのだが、読者がそのイメージで胸を刺し貫かれた瞬間にこの短篇は終わる。小品だが、作者の特徴をよくあらわしていると思う。つまり、リャマサーレスはどうやら込み入ったプロットやらストーリーやらは作らない。人生の本質的な、あるいは根源的なシチュエーションだけがあり、それがほとんどそのまま作品として呈示される。だからとてもシンプルだが、それを作品として成立させるのがリャマサーレスの文体であり、メタファーである。

が、そんな中かなり長く、それなりに入り組んだ人間ドラマを見せるのが「いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ」セクションの「マリオおじさんの数々の旅」。かなり年齢がいった男女の愛の物語で、やっぱりマルケスの作品、たとえば『コレラの時代の愛』や『十二の遍歴の物語』の中のいくつかの短篇を思い起こさせる。プロットは別に斬新でもなくありそうな話だが、唐突にぶち切られるラストが強烈だ。この短篇の独創性はほとんどそこだけにあるといっても過言ではない。唖然としてしまうが、これはアイロニーなのだろうか。この「いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ」のセクションは、思いが叶わない残酷な物語のコレクションなのだろうか。

「世界を止めようとした男の物語」や「姿のない友人」はやっぱり特段のストーリーがない、人物の肖像画とでもいうべき短篇で、ある人生を淡々とリャマサーレスの思いに耽るような文体が描き出していく。決して劇的に誇張したり盛り上げようとしたりはせず、とてもさりげない。「え、これで終わり?」と軽く驚くようなものもある。が、だからこそデリケートな余韻が漂う。驚きはないが、読み終えてじわっと来るものがある。

それからリャマサーレスのパターンとして、これから語られる出来事の前置き、あるいは背景となる状況や人物の描写にじっくり時間をかけ、いざメインとなる出来事が起きるとあっという間に終わるということがある。「いなくなったドライバー」もその一つだ。こういうのも出来事、つまり具体的なイベントが作品のへそになっているものの、作品そのものは状況や人物の描写によって成り立っているといっていいと思う。

ここまで読むと、このアンチクライマックス的なストーリー構成ははっきりとリャマサーレスの特徴ということが分かり、たとえば「行方不明者」はいなくなった叔父についての物語だが、最後まで叔父は戻ってこないし戻りそうな予兆すらない。ただ夢を見て終わるだけだ。起承転結でいうと承ぐらいまでしかないが、やはり文体とメタファーの力で作品になっている。

「依頼された短篇」は他と毛色が違って、いかにも小説らしい短篇。短いスパンのストーリーだし、スリリングだし、この先どうなるのかと読者を惹きつける。ただし内容は作家が依頼された短篇をなかなか書けないというもので、かなり人を喰ったアイデアだ。最後まで読むとこれが洒落たメタフィクションであることが分かる。

「夜の医者」は長編『狼たちの月』の余滴のような短篇で、山にこもって抵抗を続けるゲリラ兵たちが登場する。ゲリラ兵は官憲に追われているが、村の人々は恐怖しながらもこっそり彼らを助けたりする。その設定はまったく『狼たちの月』と同じだ。そしてある時、病気になった村人の幼い娘をゲリラ兵が治療する。感動的かつドラマティックな短篇だ。

「プリモウト村には誰ひとり戻ってこない」も静謐で痛々しい、しかし感動的な作品。これも本書の多くの短篇と同じように結末らしいものは何もないが、どう締めくくられるかと思っていると、作者は突然時間を遡って、過去のある時点である人物が発した別れの言葉を結語として使う。それによってシンプルな話が複雑な余韻を帯び、入り組んだプロットの作品よりもはるかに心に残る、見事な短篇になる。名人芸だ。

次の「明日という日(寓話)」はなんと、たった5行の短篇。しかし短いテキストの中にリャマサーレスの特質である、透明な哀しみとノスタルジーはやはり漂っている。そしてラストの「水の価値」に到達するが、これも「夜の医者」「プリモウト村には誰ひとり戻ってこない」の流れをくむ哀切な話である。孫が語り手となって淡々と祖父の人生を語る。祖父が生まれ育った村は建設されたダムのせいで湖の底に沈んでしまい、その後すぐに祖母が死ぬ。そして生き延びた祖父は...。哀しいだけでなく、長年胸の中に秘めていた祖父の思いが感動的だ。

以上だが、ざっくり言うと「僻遠の地にて」はブラックユーモアが特徴で、「いくら熱い思いを込めても無駄骨だよ」はユーモラスな傾向がありつつも読み進むにつれて『黄色い雨』に通じる哀愁とノスタルジーが濃くなり、滅びゆくものへの鎮魂歌の趣きを帯びる。しかし意外と多彩な作品が収録されていて、読んでいて驚きがある短篇集だった。

それから『黄色い雨』『狼たちの月』のイメージから、瞑想的かつ謎めいた、全体像が分かりづらい短篇を書く人じゃないかとちょっと構えていたのだが、予想外に読みやすい短篇ばかりだった。何度も書いたようにとてもシンプルな状況をそのまま短篇にしたような作品が多くて、読者をケムに巻いてやろうみたいな衒いはまったく感じられない。

が、シンプルながら奥が深い。そしてプロットよりも文体、メタファー、テキストの揺らぎ、そして構成の妙がポイントになっている。素晴らしい短篇集だった。堪能した。