ル・クレジオ、映画を語る

ル・クレジオ、映画を語る』 ル・クレジオ   ☆☆☆☆

本書はタイトル通り、イタリアのノーベル賞作家ル・クレジオが映画への愛を語る本である。これぐらいビッグな作家が映画について情熱的に語る文章を読むのは言うまでもなく、書物と映画を同時に愛する私のようなファンにとっては、ほとんど恍惚となるぐらいに幸福な体験であります。

さて、本書はAmazonの紹介文には「半自伝的エッセイ」とあるが、「自伝」部分のウェイトはそれほど大きくなく、自分と映画とのかかわりを描いたところに多少著者の過去がうかがえる程度だ。たとえば子供の頃に祖母が手回し式映写機を持っていて、それでハロルド・ロイドの映画を観たなんてことが書かれている。本書は基本的には映画への愛を語るエッセイで、ル・クレジオの自伝的要素はあんまり期待しない方がいい。

では、映画についてはどんな書き方がなされているのかというと、たとえば日本の映画評論家が書く映画エッセイみたいなものとはかなり違う印象を受ける。自分が好きな、あるいは気になる個別の映画についてきままに語るというよりも、映画というものの歴史を意識し、映画という芸術全体を鳥瞰的に眺める姿勢が常に感じられる。つまり最初に映画の起源を語り、次に日本映画を語り、イタリア映画を語り、イタリア映画を語り、インド映画や韓国映画を語る、という具合に進んでいく。

要するに「映画っていいもんですよね」と悦に入る趣味的なエッセイではなく、「映画とは果たしてどんな芸術なのか」という問いかけから始まり、それを創作者の視点から考察していくという真摯な姿勢がある。そこが本書の大きな特徴だと思う。

私たち日本人にとっておそらくもっとも興味深いのは、「戦争 あの頃は映画といえば」の章だろう。あの頃映画といえば日本映画のことだった、とル・クレジオは明確に断言する。これはもう、日本人としては胸が熱くならざるを得ない。そして彼はいくつもの日本映画や監督たちを取り上げ、熱っぽくリスペクトの思いを語るのだけれど、彼の最上級の賛辞が捧げられるのは溝口健二監督である。作品としては、特に『雨月物語』。やっぱりフランス人は黒澤でも小津でもなく、溝口が好きなんだなあと思う。

ル・クレジオは『雨月物語』を観て初めて映画が芸術であることを理解したと言い、『雨月物語』を観る時自分は山間の村に住む日本人になっていると言う。つまり、この映画には普遍性と、日本を知らない外国人をも物語世界に引きずり込む吸引力があるとはっきり言っている。『雨月物語』の銀獅子賞受賞を、ただ海外でエキゾチズムが受けただけだなんて斜めに見る日本人もいるようだが、そういう輩にこれを聞かせてやりたいと思う。

しかし、それにしてもだ。この章を読むと当時の日本映画のクオリティの高さには愕然とするしかない。一体、あの時代の日本映画の凄さとは何だったのだろうか。溝口がヴェネツィア映画祭で二年連続銀獅子賞を獲り、同じ年に黒澤明『七人の侍』で銀獅子賞を獲っている。同じ頃活躍していた小津の映画もやがて世界を席巻し、『東京物語』が「史上最高の映画トップ100」の監督投票部門一位に選ばれ、世界中の映画監督からリスペクトされている。とんでもない偉業である。なぜあの時期の日本において、あれほどまでに研ぎ澄まされた芸術作品が次々と生まれたのだろうか。それを可能としたファクターは一体何だったのか。不思議でしかたがない。

さて、日本映画に触れた後著者はイタリア映画を取り上げ、パゾリーニ『アッカトーネ』やアントニオーニ『情事』について書いている。それからイラン映画に移り、キアロスタミ『クローズ・アップ』などについて。ニセ監督事件の犯人その人が映画に出て自分の役を演じ、更に本物の映画監督まで出演してしまうというこの映画の虚構ストラクチャーの複雑さに、ル・クレジオも興味津々のようだ。

そしてインド映画にも言及。しかしル・クレジオボリウッド映画にも詳しいことには驚いた。私も映画はそれなりに観ている方だと思うけれども、ボリウッド映画なんてほとんど知らない。そして終盤になって韓国映画が取り上げられる。この章は他とのバランスを考えてカットされたとあとがきにあるが、ということは、もともとは他の章より多くのページを費やして韓国映画が論じられていたのかも知れない。

それにしても、本当にル・クレジオが言うように韓国映画は未来の映画なのだろうか。私もいくつか韓国映画の傑作は知っているけれども、あまりたくさん観ていないので良く分からない。が、少なくとも今勢いがあることだけは事実だろう。それにしても、こうやって色んな国の映画が盛り上がったり衰退したりするのは、一体何なのだろうな。単純に国の経済力というわけでもなさそうだ。誰か考察してエッセイでも書いてくれないだろうか。

さて、ざっとこんな内容の映画エッセイなのだが、読み通して強く感じるのはよくある映画評論家や映画マニアのエッセイと違って、映画というものの見方や存在意義を常に根本から問いかけ、繰り返し考え直していこうという姿勢があることだ。映像で物語を語るとはどういうことか、それが観客にどう作用するのか、文字から入る小説とはどう違うのか、というような「そもそも論」にいつも目を向ける。そういうことは自明として疑わず、ショットや被写体深度などテクニカルなディテールについてマニアックに得々と語る、というような映画マニア的態度とは対極にある姿勢だ。

そんなわけで本書は、全体としては一人の創作者であり練達の作家である著者の精神に映画がどう影響を与えたか、何を考えさせたか、ということを見るエッセイと言っていいと思う。たとえばキアロスタミの『クローズ・アップ』は俳優や映画製作というものの根源を問いかけている、のようなコメントに、ル・クレジオのそんな姿勢を感じ取ることができる。