星の時

『星の時』 クラリッセ・リスペクトル   ☆☆☆☆★

作者は1920年ウクライナで生まれ、ブラジルに移住し、ポルトガル語で数々の作品を書き、1977に死去した女流作家である。本書はそのクラリッセ・リスペクトルが発表した最後の小説で、著者が死去する直前の1977年に刊行された。

非常に特色がある小説で、こんな小説は他で見たことがないなあと驚きながら読んだ。ストーリーは比較的シンプルで、ホットドッグばかり食べている貧しい娘マカベーアが主人公。彼女がオリンピコという男と出会ってつきあったり、その男を職場の同僚に獲られたり、占い師のところへ行ったりするエピソードがあるが、実のところこの小説においてそういうストーリーはあまり重要じゃない。

まず大事なのは、この娘マカベーアの物語をロドリーゴ・S・Mという男性作家が書いている、という設定である。つまり真の著者であるクラリッセ・リスペクトルは、ロドリーゴという架空の作家の後ろに隠れている。この物語はフィクションでありそれを書いているロドリーゴも虚構の存在なので、つまり本書の虚構のレイヤーは二重になっている。マカベーアが登場する小説世界の外にその物語を書いているロドリーゴの世界があり、更にその外に本当の作者クラリッセ・リスペクトルがいる現実世界がある、というわけだ。架空の作者名で書かれた小説は珍しくないと思うが、なぜ本書においてそれがとても重要かと言うと、虚構の作家ロドリーゴ・S・Mが非常に雄弁なのである。実際、小説の主人公マカベーアよりそれを書いているロドリーゴの方がよほど自己主張が激しい。

彼はマカベーアという娘の物語を語りながら、同時に自分のこと、この小説のこと、そして小説をどう書くかなどについてものすごく饒舌に、偏執狂的なほどにくどくどと語るのである。彼の想念はあっちこっちに飛び、ジグザグに移動し、逸脱し、行ったり来たりし、進んだり戻ったりする。そういう意味で、本書はマカベーアの物語であると同時に小説を書いているロドリーゴの物語だとも言える。本書最大の仕掛けはこれだ。シンプルながら、実はきわめて意味深長な多重構造となっている。この構造そのものが『星の時』という作品なのだといってもいい。

本書を手にする読者は、まずロドリーゴの挨拶から読み始めることになる。ロドリーゴはこれから小説を書こうとしていること、それがどんな小説になりそうか、どんなことを目論んでいるか、を滔々と説明する。が、その説明は全然ロジカルでも分かりやすくもなく、さっきも書いた通り堂々巡りしたり逸脱したりと非常にとりとめがない。しかも、そうした前置きが一体いつまで続くのかと思うほどダラダラ続く。「これから娘の物語を語る...」みたいな文章が何度も出て来るのでもうストーリーが始まるかと思っていると、いつまでも始まらない。

どうなってるんだと苛々してくるほどだが、それがすでにこの小説の一部なのである。貧しい娘が主人公の小説を書こうとしているロドリーゴの内面、その逡巡、躊躇、あるいはすぐにあさっての方向に漂い流れていくその想念。こういうものが、本書のテキストのかなり多くの部分を形作っている。

やがてマカベーアの物語が始まるが、物語が始まった後も作者のロドリーゴはすぐに顔を出して何やかやと口を挟んでくる。プロローグ部分と基本的に変わらない。しかも、文体がまた独特である。クラリッセ・リスペクトルの文章は晦渋と言われているらしいが、確かにストーリーを語る場合の文章にしても具体的というよりとても観念的で、普通のエンタメ小説みたいに、目に見えるような場面描写はほとんど出てこない。しかもロドリーゴのプロローグ部分と同じく、異常なまでに散漫に逸脱を繰り返す。メタファーもきわめて観念的で、分かりやすさなどまったく念頭にないが如くに自己耽溺的だ。読者に何かを伝えるためにではなく、ただ文章を書き続けるために書いているような印象すら受ける。

が、そうしたテキストの揺らぎが面白い。というより、そこを面白がる以外に本書を愉しむ方法はない。だからストーリーを追う以外の興味を持てない読者にとっては、本書は退屈で冗長な繰り言がいっぱいつまった本でしかないだろう。そう考えると、本書がいかにユニークな小説なのかが分かる。これこそまさにエクリチュールの質感を愉しむ小説であり、物語の筋に依存した従来の小説とはまったく別物といっていい。

何だか小難しそうだなと思われるかも知れない。私も最初はなんだこれと戸惑いながら読んだが、やがてこの小説の目指すものが見えてくると、そこに身を委ねることによってロドリーゴの、あるいはクラリッセ・リスペクトルの観念やイメージが頭の中で万華鏡みたいにぐるぐる回り始め、それが快感になってくる。要は「ストーリーは一体どうなってるんだ?」とか「はやくこの脱線終われよ」などとイラつかず、その脱線や逸脱が実はメインディッシュなのだと思って、ぼーっとただ文章に身を任せる読み方をすればいいのである。

訳者あとがきにも本書を形容して晦渋、哲学的という言葉が出て来るが、マカベーアとオリンピコの会話など意外にコミカルな部分もあるので、そこまで読みづらい小説と警戒する必要はないと思う。ロドリーゴの冗長な語りもそうで、慣れれば結構面白い。少なくとも本書は小説として型破りで、自由奔放であり、真にオリジナルな感性に貫かれている。私が思うに本書は現実を模倣するのではなく、言葉の力で現実を変容させる類の文学で、いわば言葉によって現実を壮麗化する小説である。このように「現実を壮麗化する」言葉を操る作家として、私はアルチュール・ランボージュリアン・グラックブルーノ・シュルツあたりを思い出した。

そしてそれは、作者であるクラリッセ・リスペクトルも十分に意識していたことだと思う。なぜなら彼女は自分の作品を訳す翻訳者に対して、「訳す時は奇妙に見えようとも文章をそのまま、カンマの位置まで正確に訳すよう求めた」と言う。ただしポルトガル語から日本語への翻訳ではそれができないので、分かりやすさを優先させたと訳者あとがきには書かれているが、しかしクラリッセ・リスペクトルがエクリチュールのリズム、流れ、構造を最大限重視していたことは間違いない。もちろん、それが彼女の芸術の核心だからだ。

「現実を壮麗化する」タイプの小説家にはもちろん言葉使いとしての天賦の才と真の独創性が必要だけれども、クラリッセ・リスペクトルはそんな第一級の作家達の中でも、相当にユニークな感性と方法論を持った作家だと思う。