ドライブ・マイ・カー

『ドライブ・マイ・カー』 濱口竜介監督   ☆☆☆☆

アカデミー賞ノミネートと国際長編映画賞受賞で話題の『ドライブ・マイ・カー』を、ようやくHBO Maxで鑑賞。村上春樹・原作で上映時間も3時間と長く、どう考えてもエンタメ色は薄そうなので、週末のたっぷり時間がある時に観た。

演出家と脚本家の夫婦が登場し、ひんやりした雰囲気の映像とともに物語が始まる。妻の音(おと)がセックスしながら物語のアイデアを口述したり、それを翌日覚えていなかったりと、冒頭からさっそく村上春樹印の現実離れしたストーリーが展開する。口述する物語も女子高生が好きな男子の部屋に忍び込んで自分の痕跡を残してきたり、そこでマスターベーションしたりという観念的な内容で、生活感やリアリティはまあ、全然ない。主人公の家福(西島秀俊)が毎日車の運転をする時チェーホフの脚本を暗誦するなどのディテールもそう。

なんだか人工的な、わざとらしいストーリーだなと思って観ていると、音は若い俳優と不倫していて、家福はそれを知りつつ黙っている。そして唐突に音が死ぬ。数年後、家福は広島国際演劇祭で舞台を演出する仕事を受ける。ここでようやくクレジットが入り、どうやらここからが本編らしいと分かる。妻が死ぬまでは長いプロローグだったのだ。

ここから後は、基本的に家福が役者たちと芝居を作り上げていく過程がメインになるが、キーとなるのはまず彼の車を運転する専属ドライバー、みさき(三浦透子)の出現。自分で運転することにこだわる家福は最初それを拒み、スタッフと気まずい空気になるが、みさきの優れた運転技術を体感し、納得して受け入れる。しかし車中でチェーホフを暗誦する習慣は続けるので、みさきは車を運転しながら芝居のセリフを聞くことになる。

次は、家福のユニークな演出方法。オーディションで集めた役者は日本人、韓国人、そして手話を使う聾唖者とさまざまで、彼らはそれぞれ自らの言語で喋る。もともと家福の舞台は多言語演劇という風変りなものだが、それを作り上げていく方法も風変りで、たとえばホン読みの時はできるだけ感情をこめずに棒読みするよう役者に要求する。意図を教えて欲しいと言われても、考えなくてよいと突き放す。すでに棒読みしている役者が家福に注意されて、「もっとゆっくり?」と戸惑ったりする。

これは実際に濱口監督が実践している方法らしいが、戸惑いながらついていこうとする役者たちと確信犯である家福のやりとりはスリリングで、予定調和がなく、まるで演出家の仕事を映すドキュメンタリーのような感触がある。面白い。

そして三つ目のキーは、死んだ音の不倫相手だった若い役者、高槻(岡田将生)がこのプロジェクトに参加すること。家福は彼を主役にキャストするが、その役はそれまで家福自身が演じていた役であり、また高槻は家福へのレスペクト、更には死んだ音へのレスペクトを隠さない。彼と音に関係があったことは後半まで口にされることはないが、この複雑な関係性が二人のやり取りの緊張感を高めている。

こんな風に、生活感から浮遊したいくつかの観念的で人工的なアイデアをベースに、さまざまな緊張感をはらんだ人間関係が展開する。とてもスリリングで惹きつけられる。だから起伏の少ない静かなシーンや、ゆったりしたテンポのシーンが続いても退屈しない。が、その一方で、この後物語がどう転がっていくのかはさっぱり分からない。家福とドライバーの関係、芝居の稽古、家福と高槻の関係、それぞれスリリングで面白いのだが、これらがどんな物語に統合されていくのかさっぱり予想がつかないのである。つまりどんなフォーマットにも当てはまらないユニークな映画ということであり、このあたりは観ながらなるほど、さすがだなと思った。

さらに芝居の稽古が進むと、役者たちの間に今何かが起きた、と家福が説明するシーンがある。そしてそれを舞台で再現するのが演劇だとの発言もあり、この映画にはいわば監督の演技論が込められていることが分かる。多言語演劇というアイデアもそうだけれども、つまりこの映画はメタ映画、メタ演劇の要素を持っている。

そして終盤、予期せぬアクシデントが起き、プロジェクトに危機が訪れる。家福はみさきの運転で彼女の故郷である北海道に行き、すでになくなっているみさきの実家の跡に立つ。そこでみさきから死んだ母に関する告白を聞き、家福も死んだ音に関する告白をする。つまり二人はこれまで口にしなかった自らの胸中を告白し、懺悔する。家福はもっと自分の気持ちを言葉にするべきだったと言い、涙を流し、二人は抱擁する。これがこの映画のクライマックス・シーンだ。

正直言うと、この結末にはいささか失望を禁じえなかった。途中までのユニークきわまりないアイデアと、丁寧なディテールが醸し出すスリルにはかなり興奮したのだが、その果てに到達したのが死者に対する罪悪感と贖罪意識というのは割とありきたりだし、涙と抱擁で締めてしまうのも安直に思えた。素晴らしく謎めいたストーリーだったのに、結局定番の落としどころに辿り着いてしまったな、というような残念感があった。

おそらくここで涙する観客も多いのだろうが、私としてはむしろこんな「いい話」じみた落としどころなど何もなく、「これ一体何だったんだ?」みたいな破天荒な終わり方がこの映画にはふさわしかったんじゃないかと思う。この映画はテーマ性よりディテールが命だと思うからだ。まあ、完全に好みの問題だけれども。

それにしても、とにかく企みに満ち満ちた映画であることは間違いない。メタ映画、メタ演劇的要素もそうだし、劇中劇である『ワーニャ伯父さん』のセリフが何度も暗誦され、発声されることで観客に刷り込まれるのもそうだ。これらのセリフは映画のテーマと共鳴し、響き合う仕掛けになっている。

もう一つ、きわめて印象的なのが高槻が家福の車に同乗し、冒頭で音が口述した物語の続きを語るシーン。つまり女子高生が好きな男子生徒の家に忍び込んでマスターベーションする話だが、冒頭でこの話は、誰かが帰ってきたところで終わっていた。音が死んだのでその続きは分からなかったのだが、高槻はその続きを聞いたと言って家福に教える。この話の続きも色々と不気味で面白いのだが、この場面では高槻がカメラ目線で長台詞を喋る演出テクニックがスリリングだ。これも先に書いたメタ映画的要素の一つだけれども、監督が意図的にこんな不自然な撮り方をしたのは明らかで、つまり観客へ何かを仕掛けている。と同時に、何かを仕掛けていることをわざと観客に知らせてもいる。企みを教えることで更に観客を刺激し、戸惑わせ、考えさせる仕掛けになっているのだ。相当高度なテクニックだと思う。

そんなわけで、全体としては淡々とした静謐な印象の映画なのだが、色んなレベルでピンと張った緊張感が持続するため、三時間の長尺を飽きずに見せてしまう。冒頭では説明しなかった音の奇癖を終盤で説明し、そういうことだったのかと納得させるなどミステリ的な小技も巧い。

ただ、さっき書いた通り個人的にはこの長大な物語の落としどころには不満がある。だから私は、むしろこの映画は多言語演劇、家福の演出法、音の奇癖、みさきの運転などの面白い断片をランダムに羅列し、パッチワークのように繋ぎ合わせたフィルムとして堪能した。