ポルトガル、夏の終わり

ポルトガル、夏の終わり』 アイラ・サックス監督   ☆☆☆☆☆

日本版DVDを購入して鑑賞。個人的に思い入れが深い国ポルトガルが舞台で、かつそんな街にひときわ映えるイザベル・ユペール主演ということで入手したが、結果的にとても好みの映画だった。メイキングを見ると、休暇中の家族の物語という大きな枠組みだけ決めてロケ地を探し、ポルトガルのシントラを見つけ、この場所を舞台にすると決めたらしい。つまりシントラありきで撮られた映画ということであって、観てみると実際このシントラという町のムードがこの物語、そして人々の感情すべてを支えていることが分かる。

イザベル・ユペールが演じるのは女優のフランキーで、彼女の親族がぞくぞくとシントラに集まってくる。義理の娘シルヴィアとイアンの夫婦は離婚の危機の真っただ中で、孫娘マヤとも不協和音。息子のポールはニューヨークへ引っ越そうとしているところで、フランキーは自分の親友アイリーンと引き合わせようと画策するが、アイリーンは恋人である撮影監督ゲイリーと一緒にシントラ入りする(ゲイリーは「スターウォーズ」撮影中とのこと)。フランキーの夫ジミーと元夫ミシェルもいて、元夫のミシェルは今はゲイであることをカミングアウトし、トラベルガイドの青年と一緒にいる。

これらの人々がシントラで過ごす一日を色んな角度から描く、というのがこの映画の趣向である。登場人物達の多くがいわば人生の危機的状況にあって、中にはこの一日のどこかで重要な転機を迎える者もいる。監督によればこの設定には映画に演劇性をもたらす意図があるらしいが、必然的に、エピソードはストーリーというよりもスケッチに近くなる。つまりたった一日の出来事であるために、人々の危機や悩みが解決されたりなくなったりはしない。それらはこの映画のラストシーン以降も続いていく。ここで呈示されるのはそれぞれの人生の断片であり、断面図に過ぎない。しかしながらそれらの断片はシントラの一日の中で交錯し、渾然一体となり、ポリフォニックに響き合う。それがこの映画の魅力だ。

すべての登場人物に影響を及ぼす物語上の大きな仕掛けが一つあって、これは序盤あたりで分かることなので書くが、フランキーは死を目前にしている。が、これは物語の前提条件、人々の関係や感情に緊張をもたらす背景として機能していて、これがメインとなってセンチメンタルな悲哀の情緒で映画を染め上げることはない。この映画がどんな映画だったとしても、お涙頂戴映画ではない。

色んな断片がポリフォニックに響き合うと書いたが、それら断片の大部分は家族間の確執や愛憎である。たとえばフランキーは家族のことを想っているが、中にはそれを独善的と感じる者もいる。そして対立や、誰も望んでいない諍いが生じる。またフランキーが唐突に見知らぬ家族の誕生パーティーに参加するシーンでは、幸福そうな家族の光景とフランキーの内面、そして人生が無言のうちに対比される。その他にも森でブレスレットをなくすエピソードや、恋人同士であるアイリーンとゲイリーのすれ違いのエピソードなどが印象的だった。

そしてもう一つ印象的なのが、全員の人生が大きく揺れ動いていること。フランキーもそうだし、ポール、ジミー、シルヴィア夫妻もそうだ。今は気楽に暮らしているように見える元夫のミシェルも過去には波乱があったし、アイリーンとゲイリーもなんとか人生を変えようと闘っている。停滞しているもの、現状にただとどまっているものは誰もいない。みんながそれぞれ、見えない未来に向かって突き進んでいる。

そしてそれら人間たちを、シントラの古い町並みと神秘的な自然が包み込んでいる。それはまるで、人生とは思うようにはいかないものかも知れないが、それでも美しく、生きるに値すると告げるかのようだ。その象徴ともいうべき場面が、ラストシーンである。最後、それまで色々な場所で思い思いに過ごしていた家族や友人たちが、同じ山に集まってくる。カメラは遠景からそれを捉える。そして夕暮れ時、しだいに海の色が変わっていく。みんながそれを見ている。

サックス監督は本作を撮るにあたり、ロメールを研究したらしい。メイキングを見ると出て来るが、特に『クレールの膝』と『海辺のポーリーヌ』に言及されている。極力カットしない撮り方で、長いテイクでシーンが構成されている。これによって映画はやはり演劇的になる。観客が俳優たちの芝居をじっくり鑑賞できるように、という意図のようだ。

断片的で開かれた物語と、群像劇的なストラクチャと、演劇的な撮り方の融合。そしてすべてを包み込むシントラという場所が持つ不思議な力。これらが渾然一体となることによって、この『ポルトガル、夏の終わり』は独特の美しさと力強さをそなえた映画となった。

「本作にはすべてがある。美しい風景、家族のドラマ、そしてイザベル・ユペールだ」(ワシントン・ポスト