邪眼鳥

『邪眼鳥』 筒井康隆   ☆☆☆☆☆

何度目かの再読。これは筒井康隆が断筆解除後に発表した長編第一作で、それまで断筆のせいで書けなかったものが作者の内部で熟成し、ぐつぐつと煮えたぎった挙句、ついに封印を解かれて迸り出たかの如き見事な超虚構小説である。「邪眼鳥」と「RPG試案-夫婦遍歴」の二篇収録されている。

表題作の「邪眼鳥」は、ある家族の家長が死んだことをきっかけにその長男と次男と妹が時空を超えて彷徨っていく物語。最初はリアリズムで始まって、徐々に時空が歪み始め、しまいにはありとあらゆる境界を取り払った超現実的、夢幻的世界が現出する。これはもうさすが筒井康隆としかいいようがなく、現実を歪めていくそのテクニックは確実に名人芸の域だ。

そのテクニックについて少し書くと、キーとなる仕掛けは、死んだ父親が若い頃歌手をやっていて吹き込んだという古いレコードである。前半から中盤にかけては、このレコードから流れて来る曲が時空を歪ませるトリガーになっている。スクラッチノイズが混じるような古いレコード、古い時代の歌、というのは誰もが知る通りどうしようもなくノスタルジーを掻き立てるもので、読者全員必ず心当たりがあるだろうし、想像しやすいイメージだ。そのイメージの助けを借りて、作者は現実を乗り越えていく。これをリピートすることでいわば読者を馴らし、現実溶解のプロセスになじませてしまった後は、もうどうにでも料理できる。やはり筒井康隆はそのあたりの段取りをしっかり踏んでいく、方法論の人なのだった。

さて、こうして長男は父が残した若い未亡人を恋慕し、都会の中で彼女が若い頃にやっていたというバーに行きついたり、弟は父の財産を探していて妾腹の弟とめぐりあったり、妹は軽井沢でカフェを開きそこへ若き日の父がやってきたり、というようなことが起きる。時空が歪むだけでなく、やがては生者と死者の境界もぼやけていく。

もう一つの特徴として、作者はシーンを切り替える時に章を分けず、テキストが流れる中でふいと人物や場所が変える手法を採っているので、だんだんといくつかのサブプロットが融合していく。これも最初は比較的シーンの変わり目が分かりやすいが、次第に混沌としていき、やがて読者をわざと混乱させるようなテキストへと様変わりしていく。作者はこうして、読者を理性による読解から引きはがして、夢うつつの境地へと誘導していくのである。

面白かったのは、ある人物のセリフが途中から過去の物語のナレーションへと変化していくところがあって、その時は映画のタイトルの羅列からこの地滑りが起きる。喋っている人物が昔観たという映画のタイトルを羅列していると、急に古い映画のタイトルばかりになるので「あれれ?」と思っていると、もうセリフではなくなり、時代が入れ替わっている。

『邪眼鳥』は読者を夢のような迷宮に引きずり込むという意味で筒井文学の典型的傑作だが、たとえば同じく傑作の『ヘル』などと比べると、より静謐で、甘酸っぱいノスタルジー色が濃いのが特徴である。そのために古いレコードというフェティッシュの力や、古い屋敷、軽井沢というような場所の持つ呪縛力が最大限に活かされている。

もう一つの「RPG試案-夫婦遍歴」は、歳月の中の夫婦の歩みを細かなエピソードを羅列していくことで表現した作品である。時系列に沿ってでなく、現在、過去、夢や妄想まで自在に入り混じったテキストで、これまた素晴らしく面白い。奥さんが美人であり、語り手が愛妻家であることから著者自身の私小説的要素も多少は混じっているのではないかと思われるが、ただし語り手は作家ではない。

一貫したストーリーはなく断片的エピソードのゆるい羅列なので、散漫だと思う読者もいるかも知れない。が、すでに筒井康隆の超虚構小説になじんだ読者ならば、これ以上の快感はないと分かっていただけるだろう。面白いエピソードばかりだし、エピソードがぶつ切りになっているその断片性すら面白い。さらにその中に、語り手の職業であるコンピュータ系の断片的テキストまで混じり込んで、文章をぐちゃぐちゃにしていく。これらはストーリーとかエピソードとかいう以前に、言語感覚と戯れる遊びなのである。著者がかつて、言語実験の先端的なパイオニアであったことを思い出した。

というわけで、この作品はそもそも断片性を最大限に強調したテキストでできているのだが、そんな中へ無造作に放り込まれる話題としては、たとえば息子の作文、仕事の依頼を受け京都に旅行したこと、妻が襲われそうになったこと、妻の鳥嫌い、妻が金持ちの御曹司から口説かれたこと、などである。夢の話もあちこちに登場する。

と、そんな風に一見私小説的なエピソードが並んでいるなと思っていると、これもまた例によって非現実の浸食が始まる。存在しないはずのホテルの4階で降りたり、妻が拉致されそれを主人公が追跡したりする。しまいには夫婦が完全な非現実的空間(これは夢なのだろうか?)へ移動し、シュールのきわみのような結末へと至る。誰もが「ええっ、ここで終わり?」と驚くこと間違いなしだ。

この小説を読むと筒井康隆という書き手はもはや作品の首尾結構というものに完全に無関心、かつ辻褄合わせや整合性とはまったく無縁な境地に至った、と感じる。融通無碍の境地だ。が、それでも作者の独りよがりに陥らず、ちゃんと面白いのが凄い。

それはメチャクチャに見えてきちんとした方法論の裏付けがあるからだし、個々の私小説的エピソードには何かしら実感がこもっているからだし、非現実的エピソードには夢を見ているようなヌクヌクした官能性があるからだろう。他の作家には到底真似できない匠の技だ。