モラルの話

『モラルの話』 J・M・クッツェー   ☆☆☆☆☆

有名なノーベル賞作家のクッツェーだが、私はこれまで『恥辱』しか読んだことがなかった。『恥辱』はちょっとミラン・クンデラに近い味があるアイロニックな小説で、部分部分は面白かったけれども全体のストーリーがあまりピンと来なかったので、他の作品に手を伸ばすには至らなかったのである。ただし文章とスタイルは好きだったので、今回思い立って本書『モラルの話』を読んでみた。シンプルで大胆なタイトルに惹かれたというのもある。

本書は一種の短篇集で、七つの小品が収録されている。ただそのうちの五篇には同じ登場人物が出て来るし、内容もそれぞれが響き合って共通したテーマを奏でるようになっている。タイトル通り、いずれも何らかの「モラル」について考察する小説であり、哲学的という点でやっぱりミラン・クンデラの小説に似ているが、小品が響き合うことで全体像が浮かびあがる変奏形式の小説という意味では、クンデラ『笑いと忘却の書』に通じるものがある。

収録されているのは「犬」「物語」「虚栄」「ひとりの女が歳をとると」「老女と猫たち」「嘘」「ガラス張りの食肉工場」の七篇だが、最初の「犬」と「物語」はあっけにとられるほど短い。「犬」は、獰猛な犬にいつも吠えかかられる女性がその家の住人に抗議し、相手にされない話である。「物語」は不倫していてしかもそのことに満足している女性が、自分の幸福についてあれこれと思いめぐらす話。プロットはいずれもないに等しいが、ちょっとしたやりとりや全体の状況が醸し出す違和感によって、何か読者に思索を促すようなところがある。

「虚栄」も、年老いた母の変身(髪を染め、それまでやらなかった化粧を始める)に戸惑う息子家族の会話がメインの一篇で、とてもあっけない。ここで女流作家エリザベス(=年老いた母)とその子供たち、ジョンとヘレン、そしてジョンの妻ノーマが登場する。彼らがこの後の短篇にも共通する登場人物である。

次の「ひとりの女が歳をとると」では、ジョン、ヘレン、母親エリザベスで一緒に休暇を過ごしている。ジョンとヘレンは母に同居を提案する。この短篇から長くなり、交わされる会話も豊富になり、作品のストラクチャも複雑になる。たとえば同居の話だけでなく、エリザベスが書こうとしている小説のプロットを話し、ジョンとヘレンがそれについて議論するシーンなどが現れる。エリザベスは同居の話にどうしてもうんと言わないが、そのことと議論される小説のプロットの関係が判然とせず、この短篇に入り組んだ多義性をもたらしている。

「老女と猫たち」では、なぜか今度はスペインに住んでいるエリザベスをジョンが訪問する。エリザベスは多数の猫を飼っていて、その家にはペドロという妙な男までいる。この状況に戸惑うジョンと平然としているエリザベスの対比がユーモラスで、ちょっとシチュエーション・コメディみたいな味わいがある。それからジョンとエリザベスは、猫たちとペドロについてさまざまな議論を交わす。

「嘘」では、ジョンが再び施設への入居をエリザベスに提案する。後半でジョンとノーマの手紙のやりとりがあり、その中で老いと死が直視される。

最後の「ガラス張りの食肉処理場」では、殺される動物たちがテーマになる。ここでは登場人物が会話や議論を交わすのではなく、動物に心はあるか、という西洋哲学における問いの歴史をハイデガーデカルトを引用しながらエリザベスが書き、その未完のノートをジョンが読む、という手の込んだストラクチャになっている。その内容はもはやあからさまに哲学的であり、殺される動物たちをめぐる真摯な考察へと読者を引き込んでいく。

そして最後に、人間の経済合理性のために殺されるひよこたちの強烈なイメージが読者に投げつけられ、唐突にこの書物は終わる。容易には消えて行かない、爪痕のような余韻を残して。

読み終えた時、今自分は非常にユニークな書物を読んだという感慨を覚えた。これはいわゆるフォーマットやお約束のようなものが一切ない、とてつもなく自由で明晰な精神が生み出した小説ではないだろうか。テーマやプロットだけでなく文章も破格で、無駄を削ぎ落した現在形の文体がとても心地よいし、また登場人物たちの噛み合わない会話はところどころコミカルで、部分的にシチュエーション・コメディの様相を呈している。そんなこんなで読んでいて実に愉しく、悦楽的な読書経験だった。哲学的といってもまったく小難しいものではない。

無造作な、まるで一筆書きのイラストのようなプロットには思わず笑いだしたくなるほどの解放感がある。作者が小説らしい結構を意識した書き方をまったくしていないので、窮屈さがまったくないのである。小説の自由とはこれか、と目から鱗が落ちる思いだ。しかも内容スカスカではなく、その中に哲学や文学のエッセンスが凝縮されている。ただ本書は哲学の解説書でも手引きでもないので、はっきりした道筋を示してくれるわけではない。多義性に満ち、読者を思索へと誘うだけだ。読者は自分で考えなければならない。

だから私も本書に込められたクッツェーの思索を十分に理解できた自信はないが、それでもそのエッセンスは熟した果実のような芳香を放って読者を魅了する。私は大体において審美的な小説を好み、何らかのメッセージが込められた、あるいは何らかのイデオロギーによって立つ小説は敬遠したい方なのだが、本書を読むことで、メッセージがあってもプロパガンダに堕することなく、尽きせぬポエジーを溢れ出させる小説も可能なのだと思い知らされた。

とても読みやすく、数時間であっという間に読み終えてしまう本だが、その豊饒さはたとえようもない。最上級の賛辞を呈したいと思う。