暖簾

『暖簾』 川島雄三監督   ☆☆☆☆

日本版のDVDを購入して鑑賞。山崎豊子氏の処女小説の映画化作品で、主演は森繁久彌、共演には山田五十鈴中村鴈治郎、浪花千恵子、乙羽信子、その他もろもろ。日本映画ファンなら心ときめかずにいられないキャストである。老舗の昆布屋に子供の頃から丁稚奉公し、やがて暖簾をもらって自分の店を持ち、商いに人生を賭けた大阪商人の一生が綴られていく。DVDパッケージはカラーに着色されているが、モノクロ映画である。

あらすじは大体次の通り。子供の時に田舎から出て来て昆布屋の主人(中村鴈治郎)に拾われた吾平(森繁久彌)は、主人から大阪商人の心得を叩き込まれ、朝から晩まで懸命に働く。青年になった吾平は主人に見込まれて暖簾分けしてもらい、自分の店を持つが、ずっと思いを寄せていた本家で働くお松(乙羽信子)と一緒になるつもりだったのに、本家の姪である千代(山田五十鈴)と強引に縁組されてしまう。お松は身を引いて田舎に帰ってしまい、吾平はやむなく「何事も堪忍」の精神で千代と一緒になる。千代はお嬢様育ちで気が強く、最初は「養子に来たみたいだ」とぼやく吾平だったが、やがて働き者の千代と一緒に店を繁盛させていく。

更に商売を広げたい吾平は千代の反対を押し切って工場を建てるが、台風で工場も昆布も全部だめになり、本家に借金を申し込むがすげなく断られる。一時は潰れそうになるが、暖簾をかたに銀行から金を借りて何とか持ち直す。次は戦争で長男、次男とも兵役に取られ、統制で昆布も自由に売れなくなる。やっと戦争が終わると、跡継ぎとして頼りにしていた長男は戦死し、出来損ないの次男だけ帰ってくる。絶望する吾平だったが、次男の孝平(森繁久彌の二役)が昆布屋を継ぐと宣言し、父親とはまた違う思わぬ才覚をあらわして店を大きくしていく…。

大体こんな物語で、つまり働き者の昆布屋の商人が時代の流れの中で翻弄され、「どうして俺たちばかりこんな辛い目に遭わなならんのやろ」と夫婦で泣き、嘆きながらも、力を振り絞って生き抜いていく人生を大河ドラマ的に描いている。

見どころとしては、やはりまず森繁久彌一人二役だろう。父親と息子の両方を演じているが、父親が死んで息子に代になる、つまり途中で入れ替わるのだろうと思っていたらそうではなく、ずっと一人二役の「共演」が続く。つまり、父親と息子が喧嘩したり話し合ったりするシーンもたくさんあって、森繁久彌森繁久彌がちゃんと絡みを演じている。さすが芸達者だ。父親と息子は当然ながら微妙に性格が違う(父親は昔気質の頑固者、息子は合理主義者で時代の流れに敏感)が、ちゃんと演じ分けている。外見の相違としては、息子の方が眼鏡をかけている程度。が、観客は途中から一人二役であることを忘れ、二人の人間がまさにそこに息づいているかのように映画を観ることができるだろう。

それから、古き良き時代の大阪商人の心根と時代の変遷、そして一つの人生の哀歓がリアリティと感慨をもって描き出されていること。冒頭、まだ子供の吾平に主人が暖簾への敬意を教えるシーンがある。両手で荷物を持っているため手を使えず、頭で暖簾を割って入っていこうとした吾平を見て「こら! 暖簾を頭で割っていく奴があるか!」と厳しく叱るのである。そして言う。暖簾は商売人の命だ、これがあるから私らは商売していけるのだ、だから暖簾には心からの敬意を払わなければならない、と。

暖簾とは言ってみればブランドであり、ブランド価値は無論商売にとって大事だけれども、それは店の中にぶら下がっている暖簾という物体とは別に関係ない。手が塞がっていれば暖簾を頭で割ってくぐってもいいじゃないか、というのが現代的な合理精神かも知れないが、この時代の考え方はそうではない。物や道具にもスピリットが宿るのである。そしてそのスピリットに対して敬意を払う。吾平が育った時代はまさにそういう時代で、吾平はこの主人の薫陶を受けて暖簾に対する敬意や、商品である昆布に対する敬意、そして商売のやり方を学んでいく。

息子の代になると時代は変わり、合理主義の孝平は父親と違うやり方を提唱する(そして父親とぶつかる)が、やはり暖簾への敬意や、主人より早起きして余計に働くなどの、昔ながらの日本の美徳意識は継承している。時代によって変わるもの、変わらないものがある。

現代では孝平の時代より更に考え方が変わり、人権意識や労働者の権利意識もアップデートされ、商売人だからと言って暖簾に頭を下げろとか主人より早起きして働けなどと言うと「時代遅れ」と言われるだろう。それもまた時代の変遷であり、いいも悪いもないが、この映画を観ながら、今となっては「時代遅れ」と言われるであろうこの時代の一見「非合理」な考え方の中にも、もしかしたらある種の叡智が含まれているのかも知れないと思った。暖簾は単なるモノである、というのはその通りで、それに頭を下げるのは一種のフェティッシュだが、目に見えない精神のありようを養うためにはフェティッシュを利用した方が有効かも知れない。何かに感情移入した方が人間の脳は活性化する。昔の人々はそういうことを理論ではなく、知恵として身につけ、それを実践していたのかも知れない。前近代的などと言ってあまりバカにするのもどうかと思う。

さて、もう一つの人生の哀歓の方だが、これは吾平と千代の夫婦の歩みによくあらわれている。物語の途中でこの二人が涙ながらに嘆き、語り合う通り、人生とは思ったようにはいかないものだ。が、と同時に、結局はどうにかなるものでもある。吾平は一緒になりたい相手と結婚できなかったが、だからと言って彼の結婚は失敗ではなかった。彼は千代という、生涯の伴侶を得たではないか。それからまた跡継ぎと思い定めた長男は死んでしまったが、次男が店を継いで予想外にうまくやっていく。予定通り、計画通りにはいかなくても、人生は最後にはおさまるところへおさまる。おそらく、それもまた人生というものの醍醐味なのだ。この映画は観客にそう語りかけて来るようだ。

森繁久彌一人二役についてはさっき書いた通りだが、本作では他にも錚々たる役者たちの味のある芝居を堪能できる。私の場合、なんといっても本家の主人夫婦、中村鴈治郎と浪花千恵子のカップルが嬉しくてしかたなかった。中村鴈治郎は昔気質の商売人の貫禄たっぷりだし、その妻を演じる浪花千恵子も素晴らしい。浪花千恵子は吾平と千代の初夜の前にとんでもない満面の笑みで言葉をかけたり、破産寸前になって借金を申し込みにいった吾平を冷たくあしらったりと色んな顔を見せるが、そのどれもが芸術品というしかない演技だ。

そしてもちろん、吾平の生涯の伴侶を演じた山田五十鈴。自分は愛されていないと知りつつ吾平の嫁に行き、しかし店を盛り立てるために全力で吾平をサポートし、子供を生み、育て、時には女として嫉妬し、やがては吾平の唯一無二の伴侶となっていく千代。山田五十鈴はこの女性の生涯を見事に演じている。

夫婦とはただ愛す愛さないだけでなく、ともに歩いてきた歳月が刻みこまれたかけがえのない絆であると、私たちに語りかけてくるようだ。