ベスト・ストーリーズ Ⅱ 蛇の靴

『ベスト・ストーリーズ Ⅱ 蛇の靴』 若島正・編   ☆☆☆☆

以前読んだ『ベスト・ストーリーズ Ⅲ カボチャ頭』が素晴らしいアンソロジーだったので、もうひとつ時代を遡った第二巻も読んでみようと思い、購入した。本書はニューヨーカー誌の掲載作品のうち1960年から1989年までの30年間をカバーしている。表題となっている「蛇の靴」はアン・ビーティ―の作品である。全部で14篇収録されているが、第三巻の時と同じように特に印象に残った短篇をいくつかピックアップしてご紹介したい。

シルヴィア・タウンゼント・ウォーナー「幸先良い出だし」 巻頭を飾るのは、ある骨董店の店主の目を通して描かれる、まだ若い、裕福な美男美女夫婦のスケッチ。題材といいプロットといい悠揚たる筆の運びといい、あるいは物語の中の夫と妻の佇まいといい、古き良き文芸短篇の匂いがプンプンするが、さりげない出来事の中に見え隠れする、微妙なアイロニーをまぶした味わいに惹きつけられる。ユーモラスでもあり、どこか怖くもあるお話。

ハロルド・ブロドキー「ホフステッドとジーン ―― および、他者たち」 四十五歳の教授が若い学生と関係を持つ話。といってもベタベタした不倫ものでも痛々しい家族ものでもなく、ライバル関係にある二人の男がメインになって、なんだかややこしいプロットがスピーディーに展開する。カラッと乾いていて、人間関係はドタバタ劇じみている。が、この作品の最大の魅力はこの軽やかな文体と比喩がブンブン回転する旋回力だと思う。読んでいて快感だった。

    1. ペレルマン「お静かに願いません、只今方向転換中!」 なんだかよく分からないタイトルだが、これはハリウッドで映画の脚本を書く仕事をしていた著者が、実際の映画作りの体験をベースに虚実交えて書いたという短篇。映画は『八十日間世界一周』。虚実交えて、というのがポイントで、だいぶ面白おかしく誇張されているようだ。これもドタバタ的でユーモラスな短篇で、映画業界の奇人たちが次々登場してムチャクチャな仕事のやり方をする。こりゃウソだろ、と言いたくなるが、実は意外と事実に近いのかも知れない。

ピーター・テイラー「大尉の御曹司」 ナッシュヴィルとメンフィスという土地柄を踏まえて、ある家族の肖像を描く一篇。語り手は一家の息子で、姉が良い家柄の青年と結婚するけれども青年の両親はアル中。おまけに結婚後、青年は仕事もせず家に閉じこもって過ごし、義父が心配して仕事を紹介してもすぐ辞めてしまう。そのうち夫婦は酒を飲むようになり…という話。編者のコメントにある通り、取り立てて奇抜でもない物語に読者を惹きつけて離さないストーリーテラーぶりが素晴らしい。つまりここでいうストーリーテラーとはジェットコースター型のそれではなく、悠揚たる筆致でいつの間にか読者を物語の渦中に引き込んでしまう技量のこと。殺人や陰謀やどんでん返しがなくても、達人の手にかかればいくらでも小説は面白くなるのである。

アーシュラ・K・ル・グイン「教授のおうち」 SF作家のイメージが強いル・グインの洒落た掌編。ある一家が所有するミニチュアの家にまつわる話で、家の中にある小さな家、というイメージから物語はスタートする。ファンタジーになるかと思っていると、ならない。叙情的で美しい作品であるとともに、ミニチュアの家の中にあるミニチュアの家具やペットに関する描写にはちょっとミルハウザーみたいな愉しさがある。

マーク・ヘルプリン「マル・ヌエバ」 ラストの一篇。これも「幸先良い出だし」や「大尉の御曹司」のように悠揚たるストーリーテリングの妙技とノスタルジックな抒情性、家族の情愛、そして独裁政権下の暮らしという社会的な題材が一体となった、見事に豊饒な一篇である。回想記風にゆるゆると始まり、その先に起きたことをいくつかの暗示や断片で仄めかしつつもはっきりとは見せず、やがて靄の中から一つの光景が立ち上ってくるというほれぼれするようなテクニック。そしてその結果浮かび上がる全体像の哀しさと豊かさ、終章部分から溢れ出す情感の素晴らしさ。達人が書いた小説とはこれだ、と思い知らされる。掉尾を飾るにふさわしい名品だ。

私のフェイバリット短篇はそんなところだが、他にも映画評「『俺たちに明日はない』」、ニコルソン・ベイカーの初期作品「シュノーケリング」、ドナルド・バーセルミの小品「脅威」などもある。アン・ビーティの表題作は、編者の言葉を引用するなら「しらけた日常を贈るアッパー・ミドル・クラスの哀歓を、浮遊感のある文体で、涼しい皮肉をちりばめつつ、ミニマリスト的な手法でコンパクトに描く、ビーティらしさ全開の作品」である。私が持つ「ニューヨーカー」誌の典型的イメージがまさにこれだ。

全体の満足度からいえばやっぱり現代篇の「Ⅲ」の方が上だったが、さすがに読み応えは十分。それから編者あとがきでは若島正氏が、70年代から80年代ぐらいにニューヨーカー誌を夢中になって読みふけっていた頃の思い出話が色々書かれていて、これも読んでいてとても楽しかった。小説や読書にまつわる思い出話というのは、なぜこうも甘美なのだろう。