天使のいる廃墟

『天使のいる廃墟』 フリオ・ホセ・オルドバス   ☆☆☆☆

スペインの作家、フリオ・ホセ・オルドバスの『天使のいる廃墟』を読了。著者が生まれ育ち、今も住んでいるスペインのアラゴン州はメキシコによく似ているそうだが、本書もラテンアメリカ文学に非常に近い匂いがする。訳者もあとがきで、ルルフォの『ペドロ・パラモ』を引き合いに出したりしている。

といっても、あの深淵を覗き込むような『ペドロ・パラモ』ほど凄愴な、孤独感と無常観に満ちた小説でもない。どちらかというとおおらかなファンタジー色が持ち味で、静けさの中にどこか茶目っ気と暖かさを感じさせる。あそこまでおとぎ話的でもないが、マルケスの『エレンディラ』収録の諸短篇に近い方向性があると思う。

物語の舞台はパライソ・アルトという名の廃墟のような村。そこへ黒服の男、即ち主人公がやってきてたった一人腰を落ち着ける。それ以降、村にはいわくありげな人々が一人づつ順番にやってくるのだが、彼らは皆死のうとする人々であって、本書の各章はそれぞれの訪問者と主人公のやりとりに充てられる。

やってくる人々、つまり死の志願者たちはみなどこか現実離れしていて、たとえばずっと逆立ちしている男や、喋る代わりに笛を吹く男などが登場する。主人公も正体不明で浮世離れした存在であるため、廃墟めいた村を背景にした自殺志願者と主人公の出会い、対話、エピソードは必然的に幻想的な色彩を帯びる。

このように章が変わるごとに違う訪問者が登場し、主人公と絡むという形で小説は進んでいく。要するに、カルヴィーノ『見えない都市』やライトマン『アインシュタインの夢』のような奇想陳列型の小説である。読者は一つ一つの章を変奏曲のようにゆったり愉しめばよく、小説全体を通して何かミッションが追求されたり大団円を迎えたりということはない。幻想小説の王道パターンの一つだ。広い意味でいえば澁澤龍彦の『高丘親王航海記』やマンディアルグ『大理石』もこのパターンで、私はこういう小説を読んでいるとしみじみと幸福感に浸れるが、幻想文学ファンは皆同じではないだろうか。奇想が並ぶことによって幻想色が強まり、物語全体がより詩的になる。奇想が次々と連鎖することによって、無限に反復する感覚がもたらされる。

ただし、本書における奇想は訪問者の考え方や来歴、または彼らが披露する奇癖にあり、カルヴィーノやライトマンのように世界を歪めるほどの形而上学的凄みはない。また澁澤龍彦マンディアルグほど濃厚なフェティッシュもなく、言ってみればファンタジーがかった抒情的な奇想である。そういう意味ではおとなしく、全体の静けさ、穏やかさとあいまって小粒な印象を与える。

死ぬために村にやってくる人々、という設定だけ見ると不穏でダークだが、この小説のトーンは決して残酷でも憂鬱でもなく、先に書いた通りどこか暖かい。訳者はあとがきでこれを、著者が生まれ育った土地では死は別世界への扉であるという死生観があるためかも知れない、と書いている。つまり死は新しい旅立ちであって、必ずしも悲劇的な終わりではないという考え方だ。

と言ってももちろん、死とは滅びであり、人生の結末でもある。そのメランコリーは当然ながらこの小説全体に染み渡っており、これはいってみれば滅びの美学を追求した小説と言ってもいい。そこに暖かさがあるというのは、つまり滅びの中にある安息、のようなものが表現されているからである。そういう意味では、これは死や廃墟というものをネガティヴでもポジティヴでもなく両義的にとらえ、そのアンビバレンツの中に立ちあがってくる蜃気楼の如き淡い幻想を捉えた小説なのかも知れない。この小説の美しさの核心はそこにある、と私は思う。

また、さっきこれは陳列型の小説であり奇想の反復だと書いたが、最後の章だけは他と違い、黒服の男がかつて愛した女性が村にやってくる。このように、本書はどことなくロマンティックな香りも漂わせている。

最後になったが、本書の文体はリャマサーレスやガルシア=マルケスあたりを思わせる物語の語り部的文体で、読みやすく、静謐で、メランコリックな魅力を湛えている。マジックリアリズム系の幻想小説が好きな人におススメである。