小鳥の肉体 画家ウッチェルロの架空の伝記

『小鳥の肉体 画家ウッチェルロの架空の伝記』 ジャン=フィリップ・アントワーヌ   ☆☆☆★

はるか昔に購入し、途中まで読んで投げ出していた本書を引っ張り出して再読。今度は完読した。タイトル通り、有名なルネサンス期の画家パオロ・ウッチェルロを題材にした架空の伝記である。小説風ではなくアカデミックな評伝風に書いてあるので、つい、ほとんどノンフィクションかなと思ってしまいそうだが、かなり虚構が混じっているらしいので要注意。存在しない作品の解説まであるし、ウッチェルロの不倫のエピソードなど完全なでっちあげらしい。

ウッチェルロの伝記といえばマルセル・シュオッブの『架空の伝記』が有名で、日本では更にそれを下敷きにした澁澤龍彦の文章がよく知られている。私もそっちを先に読んで、ウッチェルロという画家に興味を抱いて本書に手を伸ばしたクチである。本書はシュオッブの作品と違ってアカデミックな評伝の体裁というのはさっき書いた通りで、歴史小説ではなく、エッセーが混じった評伝を、もう少し小説寄りにしたぐらいのイメージだ。ミラン・クンデラの小説に親しんでいる人なら、あれに近いスタイルと言えば分かってもらえるかも知れない。

全体が短い章の連なりで構成され、一貫したストーリーラインはなく、作者の気の向くままにトピックが変わる。基本的にウッチェルロの子供時代から大人へと時系列に沿っているが、途中急に飛んだり、交友関係を解説したり、と思ったら特定の作品を詳しく解説する章が出てきたりする。

序盤の子供時代篇では、家族構成、画家の性癖、弟子入りして蜘蛛のパオロと呼ばれたエピソード、有名な「鳥」との関係などが語られる。画家として独立してからはどんな仕事をやったか、交友関係、不倫の恋のなりゆきなどで、後半になると作品の解説が増え、特に「サン・ロマーノの戦い」の解説は詳細をきわめる。前述の通り、架空の作品の解説も混じっている。そして歳を取るとだんだん狷介になってきて仕事にあぶれ、晩年に結婚し、子供を二人もったことなどが語られる。著者はこれをポーカーフェースで、いかにもアカデミックに見せかけた悠揚たる筆致で書いてゆくのだ。シュオッブや澁澤の文章でウッチェルロに関心を持った人には、いかにも魅力的な内容だ。

本書の重要なテーマの一つはウッチェルロの交遊関係で、ドナテッロとブルネッレスキという二人の先輩画家がウッチェルロの支援者として頻繁に登場する。ある章ではウッチェルロそっちのけで彼らの紹介がなされるし、ブルネッレスキはウッチェルロの不倫の恋のライバルでもある。このブルネッレスキという男、相当気難しい嘲笑的な性格だったらしいが、同時にいたずら好きで、彼が首謀してみんなでグラッソという男を騙した話は三章ぐらい費やして延々と語られる。

おそらく本書最大の魅力は、この優雅なレトリックを駆使したエセ・アカデミックな語り口だろう。物語の牽引力はあまりないし、先がどうなるか気になるハラハラドキドキもない。が、知性とイロニー溢れるリラックスした文章は強力だ。たとえば最初の章のタイトルは「いかにして彼は画家にならないか」で、ウッチェルロがどうやって画家になったかが、ジョット、プッサンセザンヌと比較される。というか、この三人がどう画家になったかが簡潔に紹介された後、ウッチェルロが画家になっていく過程はこの中の誰とも似ていない、しかし、この三人の遠いこだまを私たちはそこに聴くことができる、と結ばれる。

そしてまたラスト直前の章でも、パオロの葬られ方が再びこの三人と比較される。この知的遊戯の感覚もミラン・クンデラに通じるものがある。簡潔というより曲がりくねった文体は意味が取りづらいところもあるけれども、イマジナティヴで思索的で、マルセル・シュオッブとはまた違う独特の典雅さをもって、パオロ・ウッチェルロという画家の肖像を描き出していく。

ところでウッチェルロといえば、ある作品でカメレオンの代わりにラクダを描いたエピソードが有名で、シュオッブも澁澤氏もこのエピソードに触れていたと思う。名前の綴りが似ているだけでまるで違う動物なので、実物を知らない無知ぶりを当時の人々に笑われたという話だが、澁澤氏は確かこれを実態より観念に惹かれる性癖のあらわれ(つまり画家はそんなことどうでもいいと思っていた)と解釈していた。本書でももちろんこのエピソードは紹介され、澁澤氏とも違う独特の理論で「解説」されている。

ちなみに本書の巻末には、シュオッブの『架空の伝記』から「絵師パオロ・ウッチェロ」が抜粋して収録してあるので、読み比べてみると面白い。言ってみれば本書はシュオッブの小品を引き伸ばしたような内容なのだが、トーンはもう少し明るく、享楽的で、エセ・アカデミックな装いだ。本書のウッチェルロはシュオッブ作品の「ウッチェロ」より人間的で、恋もすれば批判に傷ついたりもする。常人離れした、偏執狂的なところは少なくなっている。

本書はパオロ・ウッチェルロにもともと関心がない人にとってはあまり面白い小説ではないかも知れないが、私は昔から絵画について語る文章が好きで、特にウッチェルロという画家には独特のロマンと神秘性を感じるので、今回の再読では十分愉しめた。ちなみに本書にはウッチェルロ作品の図版はまったく入っていないので、その点は誤解のないようお願い致します。