十日間の不思議

『十日間の不思議』 ☆☆☆☆   エラリイ・クイーン

本書は『災厄の町』『フォックス家の殺人』に続く、ライツヴィル・シリーズの第三作目である。ライツヴィルはニューヨーク郊外にある架空の町で、ここを最初に訪れた時、古風な街並みに魅了されたエラリイはこの町を「心の故郷」と呼んだが、その後ここで起きた事件はいずれもひどく陰惨かつ救いのないものばかりで、クイーンの多彩な作品群の中でもその無残な悲劇性で突出している。それらがすべて家族内の愛憎問題であることも、このシリーズの陰惨な印象を強めている。

たとえばクイーン後期の代表作と言われる『災厄の町』ではある名家内の殺人が描かれたが、あまりにも無残な真相と関係者達の末路が衝撃的だったし、遠い過去の事件を扱った『フォックス家の殺人』では静謐なムードを湛えつつも、エラリイが見つけ出した真相の残酷さは『災厄の町』に勝るとも劣らなかった。そしてついに、三作目のこの『十日間の不思議』において、ライツヴィル・シリーズの陰惨さは頂点に達することになる

物語は大体次の通り。ライツヴィル出身の旧友ハワードと再会したエラリイは、彼が突発的な記憶喪失の症状に悩まされていることを知り、ハワードの監視役となって一緒にライツヴィルへと赴く。ハワードの実家で大歓迎され、彼の父親にして王侯貴族のような実業家ヴァン・ホーン、そして最近ヴァン・ホーンの妻となった若く美しいセイラと親交を得たエラリイだったが、やがてハワードと継母セイラの不倫関係を知り、そこから派生した恐喝事件へと否応なく巻き込まれていく…。

ライツヴィル・シリーズにはいつも悩みを抱えた若いカップルが登場するが、本作も例外ではなく、ハワードとセイラの不倫カップルがそれに当たる。が、この二人はいつになく愚かで、しかもやたら自分勝手で不道徳的という点が特徴的だ。最初は普通に好感の持てる男女という印象なのだが、不倫関係の発覚、そして恐喝事件の対応をエラリイひとりに押しつけるあたりからだんだん身勝手ぶりが目につき始め、しまいにはエラリイに対して手ひどい裏切り行為に及ぶ。

一方、エラリイもいつになくだらしない。状況的にやむを得ないところがあるとはいえ、ハワードとセイラの虫のいい頼みを何度もきいてやり、どう考えてもマズイだろうという行為に手を貸し、振り回されるままになった挙句、町の警察署長の前で完全に面目を失う羽目に陥る。有名な名探偵エラリイ・クイーンとも思えない大失態である。そしてついにハワードとセイラに愛想を尽かし、失意とともにライツヴィルを去ろうとしたその瞬間、稲妻のような天啓が彼を襲う。これまでの出来事のすべてが違う意味をもって彼の目に映り、その結果として避けがたい殺人を予測したエラリイはただちにライツヴィルに引き返すが、時すでに遅く、彼の予測通りに殺人が起きてしまっていた…。

このエラリイの天啓を転換点として、本書は前半と後半にきれいに分断されている印象を与える。そして前半と後半はまったく別の小説と言っても過言ではない。本書の異様さは何と言ってもそれである。『十日間の不思議』はおそらく、エラリイ・クイーンが書いたもっとも異様な、そして奇怪なミステリなのである。

前半では、全然本格パズラーらしくないストーリーが展開する。家庭内の不倫、恐喝事件、恐喝者への対応と、主人公エラリーとその友人カップルがどんどん困った状況に追い込まれていくプロットで、まるで巻き込まれ型のスリラーかノワール小説のようだ。そして事態が収拾つかなくなり、エラリーがすべてを投げ出して逃げ出そうとしたところで、突然パズラー小説にスイッチが切り替わる。ここからが後半だが、この第二の小説の中では、それまでの登場人物達の行き当たりばったりに見えた行動が実は全部緻密なプランに則ったもので、隠された意味があったと「解読」され、「解説」される。

きわめて人工的で、非現実的な筋立てだ。おまけにその「解読」の根拠になるのは聖書なのである。エラリイの「推理」はロジカルというより秘儀的、神学的で、ほとんどボルヘスの短篇でも読んでいるような印象を受ける。聖書の九つの罪を犯した人間は必然的に十番目の罪も犯す、などという「推理」はもはやこの世のものではない。純粋に物理的な手がかりから推理を組み立てていたあの「国名シリーズ」の作者が書いたとは、到底思えないほどに観念的である。

ちなみに10代の頃初めて本書を読んだ私は、「国名シリーズ」とはあまりに異質な展開にものすごい違和感を覚えて、本書を好きになれなかった覚えがある。私が好きだったのは『フランス白粉』や『エジプト十字架』のあの明快でロジカルな推理であって、こんな鬱々とした神学論争ではなかったからだ。しかし今読んでみると、異様さこそ変わらないものの、逆にそれが本書独特の魅力だと思うようになった。現実離れした、まるで現代版『薔薇の名前』のような強烈な聖書の呪縛と、その中で繰り広げられる陰惨な家族の悲劇。

そしてもちろん、いったんエラリイが披露した「解説」は結末に至って更にひっくり返され、最終的な真相が明らかになる。ライツヴィル・シリーズの総決算というべき、あまりにも悲惨でダークな結末だ。ただ事件の真相が悲惨だったというだけでなく、エラリイ自身がこの悲劇の完成に手を貸していたことになってしまうのだから、もはや救いようがない。本格推理ものの名探偵役としては許されない失態だ。必然的に、エラリイはもう二度と事件を手がけないと「名探偵廃業」宣言をすることになる。

まあ結果的にはこの後もエラリイが謎解きをする小説は書かれるわけだが、そういうわけでこの『十日間の不思議』は、まるでエラリイ・クイーンものの最終作のような雰囲気を漂わせている。

さて、ちょっと話題を変えて、本書はいわゆる「後期クイーン問題」を惹起する小説としても有名だ。「後期クイーン問題」とは、犯人が名探偵の推理法を知り尽くした上で偽物の手がかりを用意し、名探偵を騙した場合に生じる問題で、つまり、もしこれが可能なら、名探偵は理論上真実と欺瞞を区別することが不可能になる。従って、本格ミステリにおいて名探偵が事件を解決しても、それが真犯人によって偽装されたニセの真相でないと保証することはできない、という命題である。

本書ではまさにその通りのことを真犯人が行う。エラリイの推理法を研究した上で偽物の手がかりをばらまき、エラリイを誤った結論へと誘導するのである。彼はまんまとそれにはまってしまう。だとすれば、最後にエラリイが「真相」として提出した回答もやはり誰かに仕組まれた偽物かも知れない、ということになる。典型的な「後期クイーン問題」だ。

この問題については飯城勇三氏が著書『エラリー・クイーン論』で詳しく論じているが、彼によれば「後期クイーン問題」は成立しない。論旨をさわりだけ紹介すると、まず後期クイーン問題が成立するためには犯人が名探偵役の推理方法を知悉することが必要だが、これが成立するのはきわめて特殊なミステリ作品、もっというとクイーンの一部の作品に限られる。なぜならクイーン作品ではエラリイが手掛けた事件がミステリ小説として出版され、読まれているという特殊な前提があるからだ。この設定がない普通のミステリでは、そもそも犯人が名探偵の推理法を知悉することはできない。

そしてその限られたクイーン作品(例として『ギリシャ棺の謎』『十日間の不思議』など)において、犯人はエラリイを騙そうとニセの手がかりを準備し、それによってエラリイと犯人は直接の知恵比べをする対戦相手となるが、ここでも依然としてエラリイは犯人の欺瞞を見破ることが理論上可能である。なぜなら真犯人が犯罪の実行者である限り、そこには偽造されたニセの手がかりだけでなく、本物の手がかりもあるはずだからだ。それを発見できればエラリイの勝ちであり、見逃して騙されれば負けとなる。これはそういうゲーム、というだけの話だ。

では、なぜ名探偵と犯人が対戦すると「後期クイーン問題」が生じるように見えるのか? それは通常のミステリにおいて犯人の対戦相手は警察であり、名探偵ではないからだ。名探偵はゲームを外から眺める、いわば批評家のポジションにいて、絶対に騙されないことになっている。だから批評家がゲームに参加すると、私達読者はゲームが成立しなくなるような錯覚を覚える。が、実はちゃんと成立する。むしろ犯人対名探偵というゲームは、犯人対警察よりも更に高度で面白いはずだ。ただし、そんな高度なミステリを書けるのはおそらく、エラリイ・クイーン・レべルの書き手に限られるだろう。

まあ大体、飯城勇三氏が言っているのはこんなことだ。詳しく知りたい人は『エラリー・クイーン論』をどうぞ。

話を戻して、上に書いた通り本書はとてもいびつな本格ミステリで、論理的というよりむしろ観念的、呪術的である。一種のアンチミステリと言っていいと思う。あとがきに書かれているが、本書はそもそものアイデアがあまりに人工的であり不自然だったため、執筆担当のマンフレッド・リーは執筆に四苦八苦し、その結果本書はクイーン作品中もっとも「難産」だったという。

前半はノワールなスリラー、後半はいびつな観念的パズラー。全体としては陰惨な家庭内の悲劇にして、名探偵エラリイ・クイーンが無残な磔刑に処される物語。決して読みやすい初心者向けのミステリではないが、『十日間の不思議』は論理的パズラーの名手クイーンが論理を犠牲にして生み出した、異形の傑作と言っていいと思う。