山の人魚と虚ろの王

『山の人魚と虚ろの王』 山尾悠子   ☆☆☆☆

前に読んだ『飛ぶ孔雀』があんまり好きじゃなかったのでしばらく遠ざかっていた山尾悠子だが、やっぱり気になってこの本も買ってしまった。例によって函入りで、凝りに凝った美しい装幀である。もう本人も出版社も一般受けなんて眼中になく、好きな人だけ相手にするという姿勢なのだろうが、それでこれだけ手の込んだ本を作れるのだから大したものだ。採算性がどうなっているのかちょっと気になるが、いずれにせよ幻想文学ファンにとっては喜ばしいことである。

さて、肝心の内容だが、個人的には『飛ぶ孔雀』より愉しめた。例によって因果関係や論理は完全無視、夢の中でだけ起きるようなことが理不尽に不条理に次々と語られ、説明もフォローも全然ないという小説である。設定は、「私」と妻の新婚旅行の回想。ストーリーを順序立てて説明することは不可能なので、大体どんな感じかを断片的なキーワードで綴ってみる。

以前寄宿舎ぐらしをしていたらしい、子供のような妻。「私」と妻、駅舎ホテルに到着。妻はボーイに連れて行かれてしまい、夫の「私」は一人で部屋に。出てこない食事。何度も電話してくる妻の女代理人。夜、窓から見える庭園内の決闘。ナイフ使い。舞踏靴。夜の宮殿。シャンデリア。山の人魚と呼ばれた伯母と、その舞踏団のこと。夜の宮殿では延々と舞踏が続く。妻は交霊会に参加し、体が宙に浮遊する。クレームが多い男女のカップルが「私」と妻の行く先々に姿を現す。旅牛が通過するというので列車が止まる。「私」は死んだ母が出て来る夢を見る。部屋を出ていく妻を見かけたので後を追うと、倒れている妻を見つける…。

まるで内田百閒の短篇のように夢の中を彷徨う感覚が充満し、因果関係が分からない場面が連続するが、上記を読んでいただければお分かりの通り「私」と妻の新婚旅行という状況ははっきりしているし、出来事の流れもおおまかなところは分かる。「私」という語り手が存在しているのも、『飛ぶ孔雀』より物語の体をなしていると感じる理由かも知れない。ただその中に、とうに死んだはずの伯母の葬儀の電報が届いたりして読者にめまいを起こさせる。

それから新婚旅行と並んで、山の人魚と呼ばれた舞踏家の伯母や「私」の母親の記憶などが重要なモチーフになっていて、それらにまつわる記憶やエピソードが新婚旅行の途中に断続的に挿入される。これによって現実と記憶と夢が混乱し、錯綜し、混然一体となる効果を上げている。

更に、いくつかのモチーフや観念、あるいは視覚的イメージや言葉が繰り返し登場する。たとえば妻の「狭い場所が好き」、「私」がどこの誰とも知れない美人とすれ違うエピソード、旅牛の通過、「嫁の躾けが良過ぎる」という会話、などである。これらが何度もリフレインされることで、ただシュールな出来事が平坦に目の前を通り過ぎていくだけでなく、何かしら律動性やループする感覚が生まれる。

もちろんそれらに加え、宙に浮く妻や壁から突き出た馬の首などシュールレアリスティックなビジュアルも氾濫。このように、まったく現実味がないこの物語も当然ながら単なるデタラメではなく、作者の周到な計算とテクニックで構築されていることが分かる。

夢の再現というのはもちろん大勢の小説家が取り組んできた題材だけれども、まったく因果関係を排してシュールに徹してしまうと、読者にとっては退屈なだけになってしまう。その世界に引き込まれ、しかも夢を見ている気分をたっぷり味わせてくれる作品というのは実はかなりレアだと思うが、その意味では、本書は成功した夢小説であり、高性能な夢の機械と言ってもいいのではないだろうか。