きみのいもうと

『きみのいもうと』 エマニュエル・ボーヴ   ☆☆☆☆☆

『ぼくのともだち』が大変素晴らしかったので、それに続くボーヴの二作目『きみのいもうと』を入手、読了した。かなり上がっていた期待値もまったく裏切られなかった。『ぼくのともだち』同様、大して長くない。ストーリーはあるようでないような、何が言いたいのかよく分からないような小説だ。このつかみどころのなさについ二度読みしてしまったが、それでもやっぱり、とても奇妙な、そして不思議な魅力に溢れた小説だという思いは変わらない。

ボーヴの小説は全部「ダメ男」小説だと言われる通り、またしてもダメ男が主人公である。あとがきにある通り、本書を『ぼくのともだち』の続編だと思って読むこともできるだろう。が、にもかかわらず、決して二番煎じではない。『ぼくのともだち』とよく似た感触でありながら、肝心な部分が決定的に違うのである。

主人公アルマンは、かつて貧しかったが今は戦争未亡人ジャンヌのツバメになって、満ち足りた生活をしている。ある時かつての友人リュシアンに出会い、彼がいまだに貧乏であるらしいことを知る。家に招いて食事を振る舞い、次に彼のアパートを訪ねる。そこで彼の妹マルグリッドに会い、そばかすだらけの内気なこの娘、兄に服従し怯えるこのあわれな娘になんとなく気をそそられ、夜更けに訪ねていって誘惑する。キスをした後すぐに後悔して別れるが、罪悪感と不安にかられていてもたってもいられなくなる。次にリュシアンに会うと妹を誘惑したと非難され、家に帰るとリュシアンからそれを聞いたジャンヌに出ていけと言われる。彼は哀願するがジャンヌの気持ちは変わらず、アルマンはやむなく、かつて住んでいた界隈にフラフラと戻っていく。

この小説はユニークなところだらけだが、まず第一に、人々の行動がおかしい。というより、人々の行動の描き方がおかしいというべきだろうか。私達はこの小説を読みながら、登場人物たちのやりとりがまるでバスター・キートンサイレント映画ジャック・タチの映画でも観るように、デフォルメされ、オフビートに様式化されていることに気づく。たとえば本書で最初に起きるイベントはアルマンとリュシアンの再会だが、町でばったり会った二人の第一声が読者には分からない。何か言ったとしてもそれは省略されていて、彼らはただ無言で連れ立って、一緒にカフェに入っていったように見える。まるでチャップリンキートンのパントマイム芝居のようだ。全篇この調子なので、本書は時にカフカ的な不条理コメディの様相を呈する。

次に、語り手であるアルマンの常軌を逸した観察魔ぶり。いやもう、彼の観察し描写することへの執着は偏執狂的なレベルで、風景や通りの様子や道行く人々の描写はもちろん、誰かと会話している合間にも相手の外見、服装、仕草まで詳細な描写が続く。そしてそれはこの小説にミニマリズム的な効果を与えるだけでなく、普通の小説における心理描写の代用にまでになっているのである。

たとえば、この小説の中でアルマンの恋人ジャンヌはあまり喋らない(というか本書の中では誰も十分に喋らず、常に言葉が足りない印象がある)が、彼女の断片的なセリフとセリフの間にアルマンは彼女の表情や肌のつやや見なりなどを細かく観察し、そのディテールを読者に報告することを止めない。そしてそれが言葉にされなかった彼女の心理や、態度の不穏さ、怒り、あるいは彼女の幸福感や満足感を仄めかすことになる。

そして第三に、誰の目にも明らかな語り手アルマンの誇大妄想癖。『ぼくのともだち』の主人公ヴィクトールもそうだったが、アルマンも同じだ。彼は貧乏時代の友人リュシアンと出会うと彼がまだ貧乏であることを知ってたちまち優越感に浸り、彼がかわいそうになり、優しくしてあげなければと思う。と同時にリュシアンのひがみ根性に嫌悪感を抱き、こんな奴とはもうつきあいたくないとも思うし、自分も昔はこうだった、またあの頃に戻るのではないかと不安にかられる。こうしてアルマンの内心では優越感と劣等感、不安感と満足感が途切れることなく、次々と移ろっていく。

そしてこれらはアルマンの心理描写というより妄想に近いので、これだけ細かく説明されていながら、読者にはあいかわらずアルマンの気持ちがよく分からない。そもそも、アルマンはなぜマルグリッドを誘惑したのだろうか。彼女に惹かれたのかどうか、その一番肝心なところがこの小説ではよく分からないのである。最初に彼女を見た時アルマンが感じたのは主に哀れみであり、かわいそうと思う気持ちだった。その中におそらく、異性としての一抹の関心があった。それはアルマンがジャンヌを愛していないということだろうか、あるいは単なる浮気心か、退屈しのぎか。

あれだけ自分の妄想的心理の移ろいを細かく説明しながら、肝心なところが分からない。おそらく本人にも分かっていないのだ。それから更に奇妙なのは、一人称の語りなのにアルマンが他人の心理、たとえばマルグリッドの気持ちを説明してしまうような文章がある。推測じゃなく断言になっているのだが、あれも妄想なのだろうか。少なくとも本当かどうかは分からないわけで、そんなところもこの小説のモヤモヤした妄想的性格に拍車をかけることになる。

そんなこんなでかなり奇妙な小説なのだけれども、結局この小説は何を言っているのだろうか。邦題は『きみのいもうと』で、つまりマルグリッドのことだが、実のところマルグリッドはほんの少ししか登場しない。彼女にキスしたアルマンが疚しさにかられて逃げ出すと、もうそれ以降登場しないのである。それ以降はジャンヌとアルマンの関係がクローズアップされるが、ではアルマンとジャンヌの愛の物語かというと、そうも思えない。そもそもアルマンがジャンヌを愛しているのかどうかすら、この小説ではよく分からない。

ストーリーの流れとしては、かつて貧乏で不幸だったが今は満ち足りている男が、ふとしたことでその幸福を失い、また貧乏な状態に戻る物語である。だからそれが主題だと解釈できないこともない。物語の冒頭から、アルマンは今の幸福を失うことへの漠たる不安にかられている。人間の幸せとは一時的なもの、かりそめのものであって、不条理なまでに無意味なきっかけで簡単に失われてしまうものだ、という小説なのかも知れない。

一方で、この小説全体の妄想性、情緒不安的気味のムードからして、アルマンという人間存在のありようを描いたミニマリズム小説とも考えられる。本書の原題は「アルマン」だ。アルマンという一人の男の肖像、優越感や劣等感や、幸福や不安など色んな矛盾をかかえた一人の人間の謎を浮かび上がらせた小説。つまり、ストーリーに特段の意味はない。何でも良かった。

まあどう考えるは読者の自由だと思うが、そういう揺らぎと懐の広さを持っているという意味で、これはとてもモダンな小説だと思う。奇妙な物語であり、コメディであり、寓話であり、不条理譚であり、ミニマリズム小説であり、ポストモダン小説でもある。ベケットハントケが本書に魅せられたというのもよく分かる。