積木の箱

『積木の箱』 増村保造監督   ☆☆☆★

日本版DVDで鑑賞。またしても、増村監督+若尾文子コンビのトンデモ映画登場である。この二人が組んだ映画は本当にバラエティ豊かで、『清作の妻』『赤い天使』『妻は告白する』みたいな残酷美を湛えた芸術的な映画もあれば、『青空娘』『「女の小箱」より 夫が見た』みたいなB級テイスト満載映画、さらには『卍』みたいにふざけて作ったのかと言いたくなるトンデモ映画もある。増村監督の場合、こういうトンデモ映画も明らかに異常なのに一概に駄作と片付けられない、どこか妙な魅力があるのが厄介なのだけれども、この『積木の箱』もそんな映画の一つである。

路線としては『卍』に近い。要するに、エロ大爆発路線。最初の方をちょっと観ただけでもう裸体映像が続出するが、その雰囲気は間違っても高尚なエロティシズムじゃない、B級エロだ。加えてわざとらしく稚拙な演出、役者たちの極端な変態演技。父親役の内田朝雄はいい年してニヤニヤしながら女体をなめ回し、愛人の松尾嘉代はホッホッホッと高笑いしながらハゲおやじの頭を撫で撫でする。おまけに主人公が中三ぐらいの少年なので、彼の下手な演技がますますB級ムードを助長する。

要するに、この裕福な一家においては皆どこか異常で、女を快楽の道具としか思っていない実業家の父親は妻と若い愛人を同居させ、愛人のことをお姉さんだと子供たちに説明している。妻は嫌々ながら生活のためにそれを黙認、高校生の長女(梓英子)はそれを知っているが自分も快楽主義的に生きることにしか興味がない。中三の長男は最近父親とお姉さんが乳繰り合っているのを見てようやくそれに気づき、「父さんも姉さんも不潔だ!」と鬱屈する。

そんな少年の心を癒すのは、近所の牛乳屋のおばさんこと若尾文子だけである。少年が牛乳を買いにいくと優しい言葉をかけてくれるシングルマザーの彼女は、まるで美しい菩薩のようだ。少年は彼女の幼い息子を可愛がったり食事をご馳走になったりするが、一方で干してある下着の匂いを嗅いだりと遺憾なく変態ぶりを発揮。更に、若尾文子に思いを寄せている担任教師の緒形拳に敵意を燃やし、さかんに声をかけてくる先生を撥ねつける。

で、少年を心配した緒形拳が家庭訪問すると、高校生の長女が露骨な色仕掛けで先生を誘惑してくる。恐ろしい家庭である。が、若尾文子にしか関心がない先生は女子高生の誘惑など撥ねつけ、若尾文子にプロポーズする。しかし実は、若尾文子には誰にも言えない暗い過去があった。彼女はかつて少年の父親の秘書だった時この男にレイプされ、幼い息子は彼の子供だったのだ。なんてこったい。

一方、鬱屈がどんどんひどくなる少年は父親の愛人・松尾嘉代に誘惑され、彼女と関係を持ってしまう。「不潔だ! 大嫌いだ!」なんて言っていながら、実は色っぽい彼女に惹かれていたのである。こじらせ少年だ。松尾嘉代は同じ家の中で父親と息子の両方と関係を持ち、嫉妬に狂う少年をからかって遊ぶ。ついでに若尾文子の素性を知り、「あの人の財産を狙ってるんでしょ、そんなこと私が許さないわよ」とわざわざ嫌味を言いに行ったりする。

もうすでにわけが分からない話になっているが、少年の鬱屈はますます亢進し、とうとう緒形拳が当直している夜に学校に放火するという暴挙に出る。それによって若尾文子の幼い息子がひどい火傷を負ってしまったため、少年の罪悪感はもはや耐え難いまでに高まる。彼はついに自暴自棄な行動で、地獄のような自分の家庭を破壊しようと決心する…。

いやーすごい話だ。とにかく、あらゆる登場人物が極端だし、何かしら変だ。松尾嘉代と梓英子は色情狂としか思えないし、父親役の内田朝雄はレイプ魔である。主人公の少年もこじらせ過ぎて子供らしさはかけらもない。性への関心ではちきれんばかりになっている。

まともな人間として登場するのは先生役の緒形拳若尾文子ぐらいだが、緒形拳はいい人過ぎて逆にヘンである。少年の担任教師だが、なぜか神出鬼没で、少年が川のほとりや町中で鬱屈していると突然現れ「どうした?」などと声をかけてくる。少年の姉である梓英子が高校生とは思えない色っぽさで迫って来ても微動だにしないし、少年が放火したのを知っても躊躇なく「自分の責任です」と罪をかぶってしまう。

そしてもちろん、この異常な人間模様の中のマドンナというべき若尾文子。牛乳やタバコやお菓子を売る店をやっているシングルマザーで、幼い男の子とつましく暮らしている彼女はまるで菩薩のような優しさで主人公の少年を包み込むが、しかし彼女もレイプ魔・内田朝雄の犠牲者であったことが後に判明する。松尾嘉代のことを「きれいだ」「好きだ」と言っていた少年も、彼女が若尾文子のところへやってきた時「ここはお前が来るところじゃない! 帰れ!」と叫ぶところを見ると、松尾嘉代には性欲で惹かれているだけで、本当に慕っているのは若尾文子なのだろう。しかし本作の若尾文子はいい人過ぎて、実のところあまり存在感がない。

そういう意味では存在感あり過ぎるのが松尾嘉代で、彼女はある意味この映画の雰囲気づくりにもっとも貢献しているキャラだ。つまりB級エロティシズムの源泉というべき役柄で、色気のかたまりのような女を演じている。妻がいる中年おやじの愛人として同じ家で暮らし、しかもその中学生の息子まで誘惑し性の手ほどきをしてしまう。

観始めて10分ぐらいで、これはとんでもなく稚拙で低俗な映画じゃないかと思ったが、そのまま観続けているとこのあまりのいびつさ、歪みっぷり、低俗の過剰が一種の魅力になっているようにも思えて来る。これが増村マジックだ。『青空娘』や『卍』と同じである。何事も自信たっぷりに、過剰なほど徹底されるとこれって凄いのかなと思えてくる。もちろん、錯覚かも知れないが。

結末も意味不明である。あの放火もまったく無謀だが、その行き着く先も自暴自棄というか、わけが分からない。ラストシーンになっても物語的には何も解決していない、むしろ途方に暮れたところで終わるのである。

まあそんなわけで、この映画は絶対に傑作ではないが、駄作と切って捨てるのも躊躇してしまう。とりあえず、家族で鑑賞するにはもっとも適さない映画ということだけは確かだ。もしこれをお茶の間の団欒時に観たら、あっという間に一家離散を招くこと間違いなし。