恋するアダム

『恋するアダム』 イアン・マキューアン   ☆☆☆☆

マキューアンの新作が翻訳されたことを知って、さっそく入手。彼の小説は多少の出来不出来はあるが、チャレンジングで刺激的な題材という点では常に期待にこたえてくれる。本書もいつも通り、挑発的で現代的なテーマを掲げて多彩なサブテーマと仕掛けで幻惑する、知的かつアイロニックな小説に仕上がっていた。

本書で扱われるのはおそらく今もっともホットなテーマ、AIである。ある意味議論され尽くした感のあるテーマでもあるけれども、これをマキューアンが小説にするとなると期待感が高まらざるを得ない。タイトルのアダムとはAIを搭載した人間そっくりのロボットのことで、彼が所有者である「僕」のガールフレンドに恋をするというのが主要なプロットだ。

もう一つ重要な仕掛けは、これは近未来SFではなくパラレルワールドものだということ。つまり、本書の舞台は私達の現実世界とは異なる歴史を持つもう一つの世界ということになっている。ミレニアム前にネットやAIが著しい進化を遂げた世界であり、だから2010年代にAI搭載型ヒューマノイドロボットが発売される。その他にもケネディが暗殺されていないなど、重要な歴史の違いがある。

さて、あらすじは大体こんな風である。主人公の「僕」は会社を辞めてからデイトレードでなんとか生計を立てている男で、同じアパートに住むミランダに恋している。ある時、AIを搭載した人間と見分けがつかないロボットが限定発売され、「僕」はその中の一台を入手する。ロボットの精巧な出来に驚きつつそれをアダムと名づけた「僕」は、彼の性格パラメータの設定をミランダに手伝ってもらい、アダムをいわば自分とミランダの「子供」にすることで、ミランダとの距離を縮めようと考える。ミランダは快諾し、アダムはいわば「僕」とミランダの共同財産となる。

思惑通りミランダと恋人同士になれた「僕」だったが、ある日ミランダがアダムと寝たことを知る。「僕」はミランダに腹を立てるが、彼女は「あれは機械なのよ」と笑って相手にしない。そのうちアダムが「私はミランダに恋をしています」と告白したことで益々状況がややこしくなり、「僕」はアダムの電源を切ろうとする。アダムは抵抗し、そのせいで「僕」は腕を骨折してしまう。アダムは謝罪するが、電源を切ろうとしたらまた同じことをやるだろうと告げる。やがて彼は自分で自分を改造し、電源を切れなくしてしまう。さらにアダムは俳句を作ったり、「僕」の代わりに株で大儲けしたりする。一方、アダムの行動が理解できない「僕」は色々と調査し、発売されたロボットたちの多くがアダムと同じように奇怪な行動を取っていることを知る…。

ディテールは複雑に入り組んでいるが、大体のところはこんなストーリーだ。さまざまなミステリーや議論が提示されるが、まず人間側の議論として浮上するのは、ミランダがアダムと寝るのはチャーリーへの裏切りか否か。人間の男そっくりのアダムとセックスすることは当然アダムを嫉妬で苦しめるが、ミランダは「それはバイブレータに嫉妬するようなもので、ナンセンスだ」と言う。なるほど、それはそうだろう。しかし人間の感情はそう割り切れるだろうか。これは人間そっくりに感情表現するロボットは人間として扱うべきか機械として扱うべきか、という問題につながっていく。そしてこれを議論するにはただロジックだけではなく、人間の感情を考慮に入れなければならないと思う。将来、もし人間型ロボットが「人権」を主張し始めたら、私たちはどうするべきだろうか。

次に、AI側のさまざまな問題提起。アダムは色々と不思議な行動、つまりロボットらしからぬ行動を取り、そのミステリーがこの物語をスリリングなものにする。なぜAIが人間に恋をするのか。人間に危害を加えられないはずのロボットがなぜチャーリーにケガをさせ、さらにまた同じことをするだろうと脅しまでするのか。本書ではアシモフの三原則があっさりと破られてしまうのである。

それから、ロボットたちの多くが自分の電源を切れないようにしてしまうのはなぜか。AIの生みの親チューリングはそれを「自分の意識というものの価値を高く評価するからだ」と説明するが、漠然としていてよく分からない。「意識」は常に自己防衛を最優先するということだろうか。そして後半になって登場する実に不穏なミステリー、なぜロボットの大部分が自殺するのか。これもチューリングは、ロボットが人間が抱える矛盾や複雑さを理解できず、嘘をつく人間との共存に絶望するからだと説明するが、説得力があるとは言い難い。電源を切られることすら嫌がるロボットが、何かを理解できないといって自らを破壊するだろうか。これらの説明は、少なくとも私には物足りなかった。

そして更に、他のロボットがみな自殺するのにアダムがそうしない理由は何か。どうもミランダに恋をしたことが関係しているようだが、これも良く分からない。そもそもAIが恋をするとはどういう意味なのかが分からないのだから、分かるわけがない。終盤になると更に、アダムはミランダを警察に引き渡そうとしたり、株で儲けた金を全部勝手に使ってしまったりという予想外の行動に出る。

こんな具合に次々と面白いミステリーが出て来てとても刺激的なのだが、その反面、「謎解き」は不十分だ。一応の説明はなされるのだが漠然としていて、議論が十分に掘り下げられていないと感じる。本書ではアラン・チューリングが謎解き役として登場するが、彼による解説はあまりに一般論的なのである。そうなると、そもそもこれらミステリーは全部マキューアンが考え出したものなので、納得できる回答が与えられないとすべてが絵空事のように感じられてしまう。AIが恋するなんて現実にはないない、で終わってしまうのだ。こんなことが起きるかも知れないぞ、と警鐘を鳴らすのならそう思う根拠を示さないと説得力がない。

それ以外の重要なサブプロットとしては、「僕」がマークを養子にする件とミランダの復讐がある。ミランダはかつて同性愛関係にあった女性の不幸に絡んである復讐計画を実行するのだが、アダムはこの動機を理解できない。AIと人間の思考の違いが語られているはずだが、やっぱりここも掘り下げが甘い気がする。AIは人間の感情を理解できないのでただ法律に則って正誤を判断する、ということだとすればあまりに単純で、では彼のミランダに対する「恋」とは何なのかということになる。

こんな風に本書では面白い問題提起が次々になされるのだが、どれも十分に掘り下げられることなく終わってしまった印象があり、私としてはその点が最大の不満だった。

が、複雑に入り組んだプロットとちりばめられた謎の数々が刺激的であることは変わりなく、いつも通り鋭利なメスのような文体も冴えている。あなたがマキューアン・ファンならば、本書を友に幸福な夕べを過ごすことができるでしょう。