スウィングガールズ

スウィングガールズ』 矢口史靖監督   ☆☆☆

日本版ブルーレイを購入して鑑賞。私は李相日監督の『フラガール』が大好きで、同じ系統の日本映画を観たいと思ってこれを入手した。矢口史靖監督作品は有名な『ウォーターボーイズ』も未見だが、ジャズ演奏と上野樹里に惹かれてこっちにした。

舞台は東北の高校。夏休みなのに補習を受けているダメダメな女子高生たちは、補習をサボるため野球場への弁当配達を引き受けるが、弁当が腐ったせいでブラスバンド部の全員が食中毒となる。唯一食中毒を免れた拓雄(平岡祐太)から責任取れと迫られ、友子(上野樹里)、良江(貫地谷しほり)、直美(豊島由佳梨)などの補習組女子たちはいやいや吹奏楽をやることに。そこに縦笛しかできない香織(本仮屋ユイカ)や、バンドがなくなってやってきたロックギタリストとベーシストが参加する。拓雄は人数も足りないしギターもいるしで、ビッグバンド・ジャズをやろうと思いつく。サボり性の友子たちをしごいて練習させ、なんとか音が出せるようになった頃、ブラスバンド部の連中が復活して「ありがとう、でももう結構よ」と言われる。

「あー助かった」と言いながら、実はジャズ演奏の楽しさに目覚めた友子は中古で楽器を買って練習し、拓雄と意気投合してバンドを続けることに。金欠で楽器も買えない彼らはバイトや松茸狩りで金を貯め、スーパーの客寄せから演奏を始める。が、あまりの下手さに客からはモノを投げられ、仲間も去っていく。それでもジャズをやりたい彼らはジャズマニアの数学教師(竹中直人)をコーチに引き入れ、スイングって何だろうって悩みながら練習するうちにだんだん上達し、客から拍手をもらえるようになって、いつしか離れていった仲間も戻ってくる。次は音楽コンクールに出場しようと盛り上がるスイングガールズだったが、友子がコンクールへの応募を忘れてしまい…。

大体こんな話で、当然ながらクライマックスはスイングガールズがコンサート会場の観衆の前に生演奏を披露する舞台となる。上野樹里のサックス・ソロ、貫地谷しほりのトランペット・ソロ、そして豊島由佳梨のドラム・ソロなども含むその演奏はまったく素晴らしく、しかもそれらはすべて本人たち自身による演奏だという。プロによる吹き替えは一切なし。あれだけの演奏を見せるために、まだ若かった彼らがどれだけ猛練習をしたかは想像にかたくなく、実際に彼らは映画出演が決まってから毎日練習を欠かさず、唇をはらし、映画の打ち上げ席上ではボロボロ泣いたという。当然だろう。私はそれをやった上野樹里をはじめとする出演者たちには心からの拍手を送りたい。それも、特大のスタンディング・オベーションを。

だから、この映画は傑作になって良かったし、なるべきだったと思う。出演者がそれだけの汗と涙と情熱を込めた映画なのだから、それをスクリーン上にそのまま放出してやるだけできっと『フラガール』並みの素晴らしい映画になったに違いない。ところが、矢口監督をはじめとする製作陣はそれをしなかった。まったく不可解なことに、これだけいい役者を揃えながら、そして上野樹里というナチュラルでデリケートな演技ができる女優を主演に迎えながら、矢口監督は平坦で大げさなギャグと演出でこの映画を塗りつぶしてしまった。

嫌な予感が漂い始めたのは、冒頭、野球場の食中毒シーンあたりからである。まだブレーク前の高橋一生がいきなりゲロを吐き、白石美帆が中腰になってトイレに駆け込む。まるで悪趣味なコントみたいだ。その後演出のひどさは徐々にあらわになり、泣く時は女子高生たちがわざとらしく全員でわんわん泣き出し、野球場でボールが当たった貫地谷しほりの顔はお岩さんみたいになる。わけが分からないのが松茸狩りでイノシシに追いかけられるシーンで、わざわざストップモーションにして全員のヘン顔を映していく。あれで笑わそうとしているのだろうか。

とにかく、普通に淡々と撮ればいいのにこれじゃぶち壊しだ、と思うシーンが続出する。もちろんコミカルな演出で笑わせようとするのはいいが、そのやり方があまりにも雑だ。ストーリーと全然関係ないイノシシとの追っかけっこなどを入れてくる脚本にもげっそりする。この映画は脚本も矢口監督が書いているので、この迷走するコメディ感覚は矢口監督自身のセンスなのだろう。

もう一つの大きな不満は、少女たちが楽器と、そしてジャズと悪戦苦闘する過程がまったく出てこないことである。最初はひどいへたっぴいでモノを投げられたりするが、いつの間にかうまくなる。コンクールに出演しようと盛り上がるところなど、応募には演奏のビデオを送付すると知って「今日これから撮っちゃおうか」。すごい自信である。普通は曲目や演奏の完成度に悩まないだろうか。

実際に俳優たちは猛練習をこなしたわけで、そうでなければあれだけの演奏ができるようにはならない。だからこのストーリーが成立するには、当然猛練習が不可欠なのだ。でなければ不自然だし、ストーリーがいびつになってしまう。別にそれをスポ根ものみたいに大げさに見せる必要はないのである。あえて努力しているところをはっきり見せない、というアプローチも確かにあると思う。暗示するだけ、間接的に仄めかすだけでもいい。が、矢口監督はそれもしない。まるで少女たちはなんとなく、あっさりと上達したように見える。

これでストーリーが不自然になることに加え、ドラマとしてのダイナミクス設計もおかしくなる。せっかくあの素晴らしい演奏をクライマックスに持ってきたのに、それまでのタメが十分でないため起爆力がない。そのタメとは、応募し忘れたとか雪で電車が止まったとかそういう小手先のハラハラではなく、この映画のテーマの根幹にかかわる、少女たちの演奏は果たしてうまくいくのか、無気力だった彼女たちが初めて何かをやり遂げるだろうか、というハラハラでなければならないはずだ。

また、少女たちが最初「おっさんが聴くものじゃない?」と言っていたジャズにいかにして惹かれていったのか、という部分もとても面白いテーマなのに、おざなりになっている。そういう、少女たちの内面にまず変化が起き、それがアクションとなってストーリーを動かしていく、というダイナミクス設計が本作には欠けているのである。だから嘘くさく、薄っぺらくなってしまう。そして矢口監督はそれらの代わりに、寒いコントシーンと、平坦で大げさな演出で本作を埋め尽くしてしまった。彼は若い出演者たちの努力を見ていたはずなのに、一体どうしてこんな映画になってしまったのだろう。

繰り返すが、出演者自らの手による最後の演奏シーンは素晴らしい。そしてそれは、すべて出演者たちの努力の賜物である。そのせっかくの努力を映画の中で十分に活かせなかった監督には、僭越ながら猛省を促したい。