万華鏡

『万華鏡』 レイ・ブラッドベリ   ☆☆☆☆

去年の12月頃だったと思うが、中学生の頃読みふけったレイ・ブラッドベリを久しぶりに読み返したくなり、自薦ベスト短篇集『万華鏡』を入手した。子供時分、エドガー・ポーの次にハマったのがブラッドベリだった。あの頃の私にとっては本当に特別な作家だったが、その後私の中の「特別な作家」の地位はフィリップ・K・ディックに取って変わられ、その後ほとんどブラッドベリを読むことはなくなった。が、今でも創元文庫の『10月はたそがれの国』は本棚にある。

ブラッドベリはSFの抒情詩人と言われるが、たとえばディックあたりと比べると甘い、センチメンタル、という印象をどうしてもぬぐえない。私の関心が冷めた理由もそれだった。が、しばらく前に見た映画『マイ・ブックショップ』の中で、ヒロインがビル・ナイ演じる老貴族にブラッドベリの『火星年代記』をプレゼントするシーンがある。老貴族はそれが気に入りヒロインに同じ作家の他の本も催促するのだが、ここで他の作家ではなくブラッドベリを持ってきた脚本家のセンスに私はとても感心し、感心すると同時にブラッドベリを読み返したくなったというわけだ。実際、あとがきにも書かれている通り、欧米におけるブラッドベリの評価は日本の読者の認識よりもはるかに高いようだ。

本書は自薦短篇集だけあって、色んな傾向の作品が幅広く収録されている。作品の並べ方まで細かく神経が使ってあるので、ブラッドベリの全貌を知りたい読者には最適だろう。今回私が本書を読んであらためて思ったのは、ブラッドベリは「抒情詩人」と言われるだけあってやはりプロットで読ませるストーリーテラーではなく、情景とそこに染み渡る情緒を描く時にもっとも力を発揮する作家だなということだった。もちろんプロットに凝った作品もあるけれども、彼の最良の作品はやはり、情景と情緒が作品のコアになっているものだ。

得意な題材は子供時代のノスタルジーカーニヴァルで、恐怖譚を書いても怖がる対象は普通の恐怖小説みたいに幽霊や怪物ではなく、自分の骨を恐怖したり、自分の赤ん坊を恐怖したりと、変わった視点の作品が多い。初期のブラッドベリはホラー小説の雑誌からも原稿を依頼されていたようだが、それが原因で声がかからなくなったとあとがきにある。

ベスト短篇集としての本書の特徴は作品が年代順にもジャンル別にも並んでおらず、SF、怪奇譚、純文学風のものなど色んな傾向の作品が、新旧とりまぜて、完全にシャッフルされて並んでいることだろう。だから読者はブラッドベリの作風の変幻自在ぶりを心から堪能できる。一方で、時の流れによってその作風がどう変遷したかはほとんど分からない。

とにかくその引き出しの多さは驚くべきもので、お得意の子供時代を描く「たんぽぽのお酒」「歓迎と別離」やカーニヴァルを描く「刺青の男」「こびと」などがあり、初期の怪奇譚「骨」「小さな殺人者」があり、かと思えばSFスリラー「草原」「狐と森」がある。差別を題材にしたシリアスな「子ねずみ夫婦」「すると岩が叫んだ」みたいな短篇があるかと思えば、スラップスティックで明るい「国歌演奏短距離走者」「すばらしき白服」みたいな作品もある。

たとえば有名作「草原」はバーチャル・リアリティ技術が発達した未来の家庭で起きる子供たちと両親の亀裂を描いた短篇で、「狐と森」は未来社会から逃亡して当局に狩られるタイム・トラベラーカップルを描くもの。どちらもちょっと初期のディックを思わせる、背筋が寒くなるような味がある。一方で、「小さな殺人者」は自分が生んだ赤ん坊に殺されると恐怖する母親の物語で、『ローズマリーの赤ちゃん』に似た雰囲気のスリラー。こういう作品を読むと、ブラッドベリも他のSFやホラーの作家と同じようにきちんとエンタメの骨法を会得し、それに沿った作品を書ける職人作家だなと分かる。

が、先に書いた通り、ブラッドベリがもっともブラッドベリらしくなりその美質を最大限に発揮するのは、ストーリー展開はむしろミニマムで、印象的な情景と情緒がコアになった作品である。本書で言えば、「万華鏡」「霧笛」「やさしく雨ぞ降りしきる」「夜の邂逅」などがそれに当たる。どれも物語というより、一幅の絵のような作品ばかりだ。ブラッドベリが空想した特異な情景の中における、ある一瞬を切り取ったもの。そしてその切り取り方の中に、ブラッドベリ以外の作家には決して真似できないロマネスクがある。

たとえば本書の表題作にしてブラッドベリの代表作、「万華鏡」。この短篇にはストーリーらしいストーリーは存在しない。ただ爆発したロケットから投げ出された乗組員達が宇宙のあらゆる方向に離れていく、そしてさまざまな感情を抱きながら最後の会話を交わす、それだけである。捻りもなければ意外な展開もあっと驚く結末もない。しかしこの短篇を読んだ読者は、この光景とそこに込められた人間の思いの濃さを、二度と忘れることはできないだろう。

「霧笛」も有名な短篇だ。恐竜を扱ったSFだが、その扱い方は「SFの抒情詩人」ブラッドベリ特有のものだ。これは灯台の霧笛を仲間の呼び声だと思って出現する、たった一頭地上に残された恐竜を描いた短篇なのである。孤独な恐竜と、鳴り響く霧笛。このテーマをこれほど明瞭に、深い抒情性をもって表現する情景が他に考えられるだろうか。

「やさしく雨ぞ降りしきる」は名作『火星年代記』の終章部分であり、これもブラッドベリが残した最良の作品である。これこそまさに情景そのものであり、ストーリーはほぼない。愚かな核戦争で人類が滅びた地球の、滅亡後の一日を描いた短篇である。人間は一人も登場しない。当然だ、みな死に絶えているのだから。そこでは人間が遺したオートメーションの機械だけが、人類が滅びたことも知らず人間への奉仕を続けている。その光景の淡々とした描写が、どんな重厚なストーリーよりも人類滅亡のむなしさ、愚かしさ、そして哀しさを表現する。これもまた、ブラッドベリにしか書けない短篇だ。

このようにブラッドベリのユニークな美質を示す作品をまとめて読めるという点で、本書は十分に読む価値がある。ただし本書全体の印象を踏まえて(ブラッドベリの業績に敬意を払いつつも)極私的な感想を言わせてもらうと、やはりSFのジャンルではフィリップ・K・ディックアーサー・C・クラークの独創性、奥深さにはかなわないし、SFから離れた幻想文学としても、ボルヘスやポーやコルタサルに並ぶとまでは言えない。

ところでブラッドベリと言えばその文体も大きな魅力だが、本書の翻訳にはその点で不満があって、ブラッドベリの文章の魅力を十分に伝えきれていない気がする。個人的には『10月はたそがれの国』の宇野利泰氏の訳の方が好きだ。ブラッドベリらしい、ゆったりとたなびく余韻がある。本書の訳はいささかキビキビし過ぎているし、日本語表現が十分にこなれていないように思う。