真昼の悪魔

『真昼の悪魔』 遠藤周作   ☆☆☆☆

アンソロジー『事件の予兆』収録の「生きていた死者」が面白かったので遠藤周作をもっと読みたくなったのだが、以前読んだ『沈黙』はあまりにメンタル的にきつかったため、なるべくキリスト教色が薄いやつにしようと思って本書を入手。まあ確かに遠藤周作にしてはエンタメ寄りだったけれども、やっぱりキリスト教色が薄いわけではなかった。神父も出て来るし。この人、「生きていた死者」みたいな作品を集めた短篇集はないんだろうか。

とはいえ、本書も面白かったことには違いない。ある病院に勤める悪魔的な女医が恐ろしい所業を繰り返すというストーリーで、もちろんこの女医は若くて美人、傍目には無垢で清純にしか見えない。東野圭吾の大傑作『白夜行』『幻夜』に似た感じのストーリーだが、重要な違いは動機である。『白夜行』のヒロインは自分が生きていくため、あるいは野望を叶えるために他人を利用し、その反面日の当たる場所で生きていけないという哀しみを抱えていたが、本書の女医は違う。彼女の中には生への渇望も叶えたい野望もなく、ただ空虚、無感動があるだけ。あえて言えばその空虚が彼女の悩みである。

だから彼女は自分の無感動を打ち壊すため、自分の心を動揺させたい、良心の呵責や罪悪感を感じたいと願い、そのために悪を行う。それも食べ物に困って盗みを働くようなやむにやまれぬ犯罪ではなく、本当の悪を行いたいと考える。彼女にとってはやむにやまれぬ事情がある盗みや殺人は悪ではないのである。そうやって彼女はいくつか悪行に手を染めるが、期待に反して幻滅しか感じることができない。彼女の心はいっこうに動揺せず、罪悪感に苦しむこともない。このようにして彼女は、本当の悪とは何だろうかという形而上学的疑問につき動かされ、悪行をどんどんエスカレートさせていく。

いわば彼女は、悪の研究にいそしむ思想犯なのである。そこが『白夜行』『幻夜』のヒロインとは違う。しかし自分の「空虚」「無感動」を治療したい、癒されて人間らしくなりたいというその願いは本物であり、従って単なる愉快犯でもない。彼女の中には明らかに救いを求める渇きがある。だから彼女は自分の悩みを神父に告白し、アドバイスを求めたりもする。しかし、神父の答えも彼女も満足させることはできない。

もう一つ『白夜行』との大きな違いは、本書においてはこの「空虚」「無感動」は女医だけの問題ではなく、誰もが同じ問題を抱えているということ。そこに悪魔が忍び込んで悪をなす。つまりこの女医は単なる一症例であり、現代では誰もがこの女医のようになる可能性がある。本書における「悪」は個人の資質ではなく、社会問題なのだ。

この動機づけと思想的背景の違いによって、読後感もかなり違ってくる。いわば現代人の疾患としての「悪」を扱った本書は、人間でなく悪魔を論じる点においてキリスト教的であり、社会問題を指摘しメッセージを発する点において啓蒙的である。人間の業を暗示するように描かれた『白夜行』とは根本的に異なる。そしてその点が、今読むといささか時代を感じさせてしまうことは否めない。

その点を別にすればストーリーは面白くスリリングで、ページターナーとしてはとても優秀だ。プロットはこの女医視点と、難波という患者視点のプロットが並行して進む。難波は肺病にかかってこの病院に入院した学生で、前にいた入院患者が奇妙な去り方をしたことや病院内で続発する事件に不審を抱き、病院側に気づかれないようこっそり調査を始める。

女医視点のプロットは更に二つのサブプロットに分かれている。彼女が病院内で繰り返す「本当の悪」の実践と、婚約者・大塚との関係の進展である。大塚は金持ちで女遊びをし尽くしたような俗物だが、最初は知り合いに紹介された女医の美貌に惹かれ、やがて彼女の謎めいたところに熱中してしまう。そのうち女医は彼にも悪魔的な側面を見せるようになるが、大塚はそんな彼女の危険性に警戒することもなく、むしろ彼女の言いなりになっていく。

面白いのは、難波が入院した病院は女子医大付属病院であるため女医が多く、難波のまわりにも五人ぐらい美しくて優しい女医がいるので、誰がこの恐ろしい「女医」なのか終盤になるまで分からないことである。ミステリ的な趣向だ。難波は色々疑うものの、誰が悪魔的な女医なのか分からない。一方で女医視点の章でもヒロインは「女医」としか呼ばれないため、読者にも「女医」が誰なのか分からない。

さて、本書のヒロインである「女医」はもちろん人間の中に棲む悪魔を体現した存在だが、そんな彼女に対抗する存在として登場するのが神父である。神父は彼女の中の悪魔に気づき、彼女に警告を発する。後半に出て来る神父と女医の会話シーンが、本書の思想的ハイライトだと言って間違いないだろう。

会話の中で、女医は自分が行った危険な人体実験は善だと主張する。なぜなら人体実験の対象はこの先長く生きる見込みも価値もない老女であり、一方で実験の結果完成した技術によって今後多くの患者が救われるからである。一人の人間を犠牲にして百人を救えればそれは善だ、ましてその一人が生きる価値のない人間ならなおさらだ。

それに対し、神父はこう反論する。それは一見正しく見えるが、実は善を悪へと変化させてしまう腐敗した論理である。問題はそこにあるのが愛ではなく、効果だけということだ。愛がなければ善ではない。

私はこのセリフを読んだ時、なるほどキリスト教の根底にあるのはやはり「愛」なのだなと納得した。誰もが思うはずだが、女医が使う数の論理に反論するのはきわめて難しい。一部を犠牲にして多数を救う、プラスマイナスで差引勘定をすればこれは善がプラスになる計算である。「より多くの人間を救うのが善」だとすれば、これは善という結論になる。しかしそうすると、多くの人間の利益になるという大義名分さえあればいくらでも少数の人間を犠牲にできることになる。やはり、これはおかしい。

ということは、「より多くの人間を救うのが善」という前提が間違っているのである。神父はこれを「効果」だという。善をなしたければ「効果」ではなく、「愛」を考えなければならない。「効果」の観点からは無価値な老女でもそこに「愛」を感じるならば、もはや彼女を殺すことはできなくなる。彼女を殺すことでどんな「効果」が得られようとも。

神父のセリフは簡潔なのでなかなか解釈が難しいが、私なりにこの「効果」と「愛」を説明すると上のようなことだと思う。この「愛」の論理だけで「効果」の論理を覆すのは難しいが、少なくともキリスト教的にはこれが善の定義なのだと納得した。確かにそうすることで、数の論理から逃れることができる。というわけで、本書のキーワードは「愛」である。

そしてこの「効果」と「愛」の議論は、本書が書かれた当時より今の方がより切実なのではないかと思う。なぜなら、今ほどあらゆるものがコスパ、つまり「効果」で測られる時代はないからだ。結婚も家族も友人も、教育も医療も政治も、全部コスパで測られる。しかし私たちが最終的に追い求めているのが幸福だとすれば、コスパを追求することでそれが得られるのか。追求しなければいけないのは、やっぱり「愛」なのではないか。

その意味で、本書が発信するメッセージは現代においてますます重要なのではないかと思う。