項羽と劉邦

項羽と劉邦(上・中・下)』 司馬遼太郎   ☆☆☆☆

司馬遼太郎の戦国時代ものを大部分読み尽くしたので、他に面白いものはないかと思ってこの『項羽と劉邦』に手を伸ばした。これは古代中国の物語で、初めて中国統一をなしとげた大帝国・秦が滅びつつある頃、次の覇者として勃興してきた二人の王、項羽と劉邦のせめぎ合いを描いたものだ。

国史に詳しい人ならご存知の通り、秦の次は漢であり、漢は劉邦の国である。つまり最後に勝つのは劉邦だということは最初から分かっているのだが、本書の面白さは、項羽と劉邦という二人の支配者の違いを掘り下げていくところにある。この二人は、性格から能力から部下への接し方まで対照的なまでに違う。しかも面白いのは、戦の巧さや強さに関しては項羽の方が圧倒的に上ということで、劉邦は負けてばかりいる。普通に考えれば項羽が勝ちそうなものだが、結果的には弱い劉邦の方が天下を獲ってしまう。一体どこがどうなったらそうなるのか。それをつぶさに見ていくのが本書、『項羽劉邦』である。

言葉を変えると、本書のキーワードは「人の器」である。人の器とは何だろうか。これほど曖昧でわけがわからず、しかし人の価値に決定的意味を持つ言葉もない。本書前半では劉邦にはあんまりいいところがない。むしろ項羽の方に偉人の風格がある。

項羽は勇猛果敢で、「武」を身上とする帝王である。戦の巧みさでは誰もかなわず、部下は彼の強さを崇拝している。将として部下に対する情もある。が、敵対者に対しては苛烈、残酷で、敵方の捕虜を残忍に生き埋めにしたりする。誰よりも恐れられている一方で、恨みを買いやすい。また、彼には組織の中で自分の身内を重用する癖がある。他人に対する猜疑心が強いため血の繋がりを重んじ、手柄を立てた部下を褒賞する時も慎重である。

かたや劉邦はというと、戦は下手。特に項羽相手だと負けてばかりで、いつも逃げている。学もない。若い頃は働かないならず者で有名だったので、同郷の人々からは舐められている。だからむしろ身内が苦手で、他人を信用する。情が深いわけでも仁君でもないが、ただ人の言うことをよく聞き、自分の欠点を認めるのに素直である。部下から批判されても怒らず、「その通りだ」とあっさり認めてしまう。そしてどこか、彼の下で働きたくなるような「愛嬌」がある。

この「愛嬌」が曲者だ。これを司馬遼太郎は「徳」と呼んでいるが、この「徳」のために劉邦の下には優秀な人材が集まってくる。項羽の下から逃げ出した人材がやって来たりもする。別のところで、作者は劉邦のことを一つの大きな「空虚」であるとも書いている。つまり自分自身には取り立てて才能はないのだが、彼の下に才能が集まってくる。そして劉邦はそれらの才能を起用することで、大きくなっていく。

これは本当に不思議で、たとえば劉邦は兵隊を与えられてこれで手柄を立てろと言われても大したことはできないだろう。が、軍隊を指揮できる優秀な将軍が何人かいると、彼らを率いて王国を興すことができるのだ。これをある作中人物は、あなたには「兵に将たる能力はないが、将に将たる能力がある」と看破する。

しかし「将に将たる能力」と言っても、本書を読む限り、劉邦が有能な将たちを巧みにコントロールしているようには見えない。むしろ一切を任せているように思える。だからこそ、一つの大きな「空虚」なのだろう。本書を読むと、将に将たる能力というのはとにかく部下を変に抑圧せず、好きにやらせる度量だという気がしてくるが、といって部下に丸投げして放任しているだけではダメなのだ。そういう上司は会社にもよくいるが、やっぱりダメである。部下に見放される。劉邦の場合はそこが「愛嬌」であり、「徳」ということなのかも知れない。これはもう、テクニックや手法ではない、人間力そのものだ。

さて、この物語は秦が支配者になったところから始まり、その役人を使った管理体制が画期的なものだったこと、しかし厳しい管理に民が疲弊して崩壊していったことなどが序盤で描かれる。その後群雄割拠して項羽と劉邦が頭角を現してくるのだが、この序盤で大きな役割を果たすのが宦官の趙高である。この男は要するに始皇帝に仕える執事みたいなものだが、立場を利用して皇帝その人と同等の権威を手に入れ、悪用し、姦計をもって将軍や忠臣を殺し、ひたすら自分の利益のために秦帝国を私物化していく。

まったくとんでもない奴で、この趙高、中国では歴史上最大の奸物として有名らしい。しかしこんな奴が一時的にも権勢を誇って悪行の数々を尽くしたというのだから、国というのも不思議だ。ろくでもない奴ということがみんな分かっていながら、怖くて逆らえない。おまけにそのせいで有能な者や、人徳のある者がみんな殺されてしまう。組織の腐敗というものがいかに恐ろしく、理不尽なものかが分かる。

さて、そうやってグズグズに崩壊した秦と対抗しつつ、項羽と劉邦が頭角を現してくる。中でも軍神のような強さと団結力を誇る項羽が本命だったが、負け続け、いまにもやられそうな劉邦がいつまでもやられず、それどころかだんだん優勢になってくる。これもまた、不思議な現象である。劉邦は何度も負け、命からがら逃げ出したりもするのだが、彼のもとに有能の士が集まってくる。部下だけでなく、周囲の有力者が彼に味方したりもする。それも劉邦の人徳に惹かれたというより、敵対者に苛烈で残酷な項羽に恨みを持っているために、劉邦に味方をするという具合だ。まるで劉邦は人畜無害なので味方が増えるとでもいうかのようだ。

実際劉邦の言動を見ていると、途中で「わし、もう無理。王なんて柄じゃなかったわ。田舎に帰りたい」と部下に泣きごとを言ったりしている。が、そんな時も部下が辛抱強く彼を説得し、王の地位を維持させていく。

さて、そんな不思議な潮の流れに乗って、絶対不敗だった軍神・項羽がついに敗れる時がくる。これは武に頼っていた項羽劉邦の謀略にやられるのだが、この謀略だって劉邦のアイデアではなく部下の進言である。ここで項羽の軍を包囲している四方の兵から楚の歌が聴こえてくるのが有名な「四面楚歌」の場面だが、滅びゆく英雄の哀しさが胸に沁みるようで、さすがに感慨深い。

こうして軍神・項羽は、常に自分より弱かった劉邦に負け、滅ぶ。最終的に勝つのは強さより徳ということだろうか。自分の力がいくら強くても、人を活かせるものにはかなわない。逆に自分の力が弱くても、他人の力を活かすことができれば自分より強い人間に勝てる、のかも知れない。

本書は大長編なのでもちろんこの主人公二人だけではなく、他にも面白い人物がぞろぞろ出て来る。序盤で活躍する項羽の叔父は項羽とも劉邦ともまた違う魅力的な曲者キャラだし、滅びゆく秦を一人で支えるほどの活躍を見せる秦の将軍や、劉邦の部下で戦術の天才というべき男なども印象に残る。史上最大の奸物・趙高の最後の悪あがきっぷりも見逃せない。群像劇として、たいへん読み応えがあります。

その一方で、ストーリーテリングの冴えとリーダビリティはさすがに日本の戦国時代ものにはかなわないようだ。ページを繰る手が文字通り止まらなくなる『国盗り物語』『新史太閤記』『関ヶ原』『城塞』の凄まじい物語力と比べると、本書は水準レベルで、むしろ人間研究の書というアカデミックな色合いが濃い。読者になじみがない古代中国が舞台ということで、制度や組織や慣習の説明が色々と出て来るが、そういうところかも知れない。他国の歴史を勉強してますという感じがある。著者が信長や秀吉を語る時の、あの深層心理から神話が湧き出てくるが如き、語り部の取り憑かれたような熱さは感じられなかった。まあそれは、しかたがないことだろう。

とは言っても、古代中国の秦の滅亡そして漢の勃興を通して人間の不可思議な集団力学を描き出した本書は、壮大なスケールの一大叙事詩というにふさわしい物語だ。人の器とは、そして人間の宿命とは一体何なのか、あなたも本書を読んで考えてみてはいかがでしょうか。