ぼくのともだち

『ぼくのともだち』 エマニュエル・ボーヴ   ☆☆☆☆★

肩の力が抜けた、とてもエレガントで洒落た小説である。著者エマニュエル・ボーヴは19世紀生まれ、没年は1945年。本書の刊行は1924年だが、とてもそうとは思えない。古色蒼然としたところなど毛ほどもなく、モダンで、どこかミニマリズム小説のようなたたずまいを感じさせる。あるいは、エスプリに満ちたフランスの現代小説と言われても信じてしまいそうだ。

訳者あとがきによれば、ボーヴの作品はどんなイデオロギーとも無縁で、そのせいで社会参加型の小説がもてはやされた時代にいったん忘れ去られた。が、その間もサミュエル・ベケットなど一部の熱心なファンがいて、70年代以降に再評価されたという。ペーター・ハントケや映画監督のヴィム・ヴェンダースもボーヴのファンだそうだ。

本書を読めば、その時代を超えて読み継がれる生命力と普遍性については完全に納得できるが、更に驚くのは、これが著者26歳のデビュー作であることだ。どんなイデオロギーとも無縁で、それだけに豊かでデリケートなポエジー、ユーモアとエスプリ、そして今読んでもみずみずしい現代性までも備えている。これだけの作品を20代の、小説を書き始めて間もない若者が書いたとは。まったく才能とは恐ろしい。

本書でもっとも印象的なのは繊細で上質なユーモア感覚だが、訳者あとがきによれば、このユーモアはその後のボーヴの小説からは徐々に失われていったらしい。後の作品は、むしろペシミスティックで深刻だという。一体何が原因でそうなったのかは分からないが、その意味ではデビュー作の本書こそが、ボーヴが持って生まれたみずみずしい輝きをもっとも自然体で解き放った作品なのかも知れない。あるフランスの批評家はボーヴに捧げた追悼文の中で、この「ぼくのともだち」という題名を「世界でもっとも美しい題名である」と讃えたという。

さて、本書は「ぼく」という一人称で語られる小説で、主人公「ぼく」の名前はヴィクトール・バトン。戦争でケガをし、傷痍軍人年金をもらって暮らしている。仕事はしていない。貧乏なため「肉も映画も毛糸のセーターも断念し」、アパート七階の屋根裏部屋でひっそりと、たったひとりで暮らしている。そんな彼がともだちのいない辛さに耐え切れず、誰かともだちになってくれないかと考え、ともだちになってくれそうな人を探して町を彷徨する。

なんだかトゥーサンを思わせる、ちょっと痛ましくもとぼけたユーモアを感じさせる設定だ。そしてこの小説は、そんなヴィクトールが出会う「ともだち候補」たち、つまりヴィクトールが一方的にともだちになれそうだと思い込んだ人たちとの出会い、ヴィクトールの思い、行動、そしてその顛末について、ひとつずつ丁寧に物語っていく。本書の中でヴィクトールが出会う「ともだち候補」は全部で 5人。男もいれば、女もいる。

ここまで書けばお分かりの通り、ヴィクトールは変人である。小心で、自信がなく、この人とならともだちになれそうだ、と思ったらたちまちその人への愛情でいっぱいになり、自分のものを分かち合うどころかすべて差し出しても惜しくない、とまで思い詰める。が、同時に相手の無神経なところや無礼さにはやたら敏感で、ちょっとしたことですぐ機嫌が悪くなる。おまけに嫉妬深く、相手に恋人がいると知ったら自分勝手に幻滅する。それどころか、その恋人がブスであることを願ってやまない。もしキレイだったりした日にはもう妬みと絶望感でいっぱいになり、ともだち候補を憎みさえする。そしてその女性(つまりともだち候補の恋人)を、急に思い立って待ち伏せたりする。

アブナ過ぎる。これじゃともだちができなくて当然である。こんな奴に一方的にともだちになれそうだ、なんて思って近づいてこられたら迷惑以外の何物でもない。本書の帯には「ダメ男小説」とあるが、確かにこれは、たとえば西村賢太氏の「寛多」シリーズにも通じる、ダメ人間の内面暴露小説的な匂いがある。「ぼく」ことヴィクトール・バトンの人間的な欠陥や、弱さ、卑劣さ、妄想癖、どこまでも身勝手な願望などを、赤裸々にこまごまと綴っていく小説なのだ。

こういう小説にどこかむずがゆいような快感や、普遍的なおかしさ、それらと表裏一体の哀愁が漂い、読みようによっては文学的な深みを感じさせることはご理解いただけると思う。あるいは、ダメ男のダメダメな言動で笑わせるという意味では、「男はつらいよ」シリーズにも似たところがあるかも知れない。

ヴィクトールはともだちを求め、人々の無理解を嘆きながら、実は自分の方が他人の気持ちを理解しようとしていない。他人に気を遣い、気に入ってもらおうとつとめながら、実は一番身勝手なのは自分なのである。彼はただ妄想に耽っているだけ、というのも訳者あとがきで指摘されている通りだ。その意味で、彼はまったく自分と他人の距離感や関係性を計ることができない人間である。彼の世界は、勘違いと思い込みだけで成り立っている。

しかし人間誰しも、程度の違いこそあれ、勘違いと思い込みの世界に生きているのではないだろうか。その意味で、私たちは誰もが心の中にヴィクトールを住まわせている。この小説のおかしさと痛々しさが普遍的なのはそのためである。

そしてこれもあとがきで指摘されていることだが、そんな妄想癖のあるヴィクトールなのに、彼の観察眼はきわめて優秀だ。街の表情、人々の振る舞い、仕草、風景の移り変わり。私達が普段は目にも留めないディテールを当たり前のように目に止め、ことこまかに読者に報告する。それがこの小説の美しさの一つでありつつ、こんなに観察眼があるのにどうして他人の心が分からないか、と複雑な気持ちにさせる。

それともう一つ、彼はともだちを切実に欲しながら、どこか人間関係から逃げ出そうとする無意識のベクトルを持っているのも、「男はつらいよ」シリーズの車寅次郎に似た部分を感じさせる。もしかすると彼はともだちが欲しい欲しいといいながら、どこかでともだちができることを恐れているのかも知れない。そして彼自身の心の奥底にあるそういう恐れが、彼のともだち作りを邪魔しているのかも知れない。

いずれにしろ、あれほどともだちを欲しがっているヴィクトールはいつも、嫉妬心から、あるいは不器用さから、あるいは自分勝手な思い込みから、人間関係をぶち壊してしまう。だから彼はいつまでたっても孤独なままだ。心の中にいつも、他人に親切にしたい、他人と愛し合いながら生きていたい、という思いを抱えたまま。

こんな小説は終わり方が難しいものだが、本書はそこも洒落ている。ヴィクトールの引っ越しで終わるのだが、これは考えてみると不思議なエンディングだ。引っ越しはともだち作りと無関係なイベントだからだ。が、この結末のおかげで、読者はさりげなくもふくよかな余韻とともに本書を閉じることができる。読者の予想通り、最後になってもヴィクトールはひとりぼっちのままだが、もしかすると、それが彼の永遠の宿命なのかも知れない。