海の乙女の惜しみなさ

『海の乙女の惜しみなさ』 デニス・ジョンソン   ☆☆☆☆☆

デニス・ジョンソンの第一短篇集『ジーザス・サン』を読んで、「えらく破天荒な作家がいるもんだなあ」と感心したのが2009年。あれからもう11年たった。原著の刊行は1992年だそうなので、約30年前ということになる。そしてこの第二短篇集『海の乙女の惜しみなさ』が本国アメリカで刊行されたのが2018年。26年ぶりの第二短篇集である。

寡作な作家さんなのかと思ったが、アメリカではそれなりにコンスタントに長編を発表しているようだ。が、日本では長編『煙の樹』と短篇集二冊しか訳されていないので、すごく間が空いた感じがしてしまう。ちなみに著者は本書の脱稿直後2017年に亡くなっているので、これは彼の最後の作品集ということになる。

私は前の短篇集と同じようなものを予想して買ったわけだが、読んでみて驚いた。シンプルでゴツゴツした、荒々しい原石のようだった『ジーザス・サン』よりはるかに複雑で、精妙で、奥行きのある短篇の数々が収録されている。文章は息が長くなり、以前にはなかった逸脱や回帰や暗示に満ち、多義的で、歳月をへて熟成したワインを思わせる。もちろん前短篇集で特徴的だった辛辣なアイロニー、飛躍する比喩、オフビート感も健在で、丸くなったわけでは全然ない。にもかかわらず、見事に熟成している。

まろやかなだけでもなく、とんがってるだけでもない。その両方の感触が入り混じっている。この味わいの素晴らしさをどう表現すればいいだろう。

文章が長くなり、かつ短篇の構造も複雑になっているので、必然的に一つ一つの作品も長めになっている。本書には五篇が収録されているが、その中で「アイダホのスターライト」と「首絞めボブ」の二つは以前と同じように反社会的、アウトロー的なダメ人間達の自己破壊的人生が題材で、『ジーザス・サン』と似た雰囲気だ。他の三篇はまっとうな職業についている普通の人々の物語なのだが、やっぱりとても奇妙だ。ひとつひとつ簡単に紹介する。

最初は表題作「海の乙女の惜しみなさ」。語り手は長年広告代理店に勤めている、かなり高齢と思われる「私」で、断章形式になっている。つまりサブタイトルがついた断章がいくつか連なっているのだが、その内容はといえば全然脈絡がなく、逸脱と横スベリの連続だ。「私」は行き当たりばったりにあれこれと色んな出来事を回想する。だから話がずれていって戻らなかったり、結論もオチもないまま文章が終わったりする。

具体的にどんなエピソードが出て来るかというと、たとえば義足の友人の話、自宅で自分の所有する絵を衝動的に燃やす男の話、「私」の神経治療の話、前妻から電話がかかってくるがそれがどちらの前妻(前妻が二人いる)からか分からず困った話、死刑囚とその妻の話、消息不明になった画家と葬儀の話、などである。「私」は常識的な仕事につく常識人なので、普通の人生の中の何かしら奇怪な瞬間、が題材になっていると言えないこともない。目立つテーマは、狂気と死である。

ただし狂気といっても陰鬱ではなくカラッとしているので、常にオフビートな悲喜劇のニュアンスを帯びる。これを読んで私が感じたのは、人生とはなんと奇妙で、調子が狂っていて、ばかばかしくて、それでいて愛おしいものだろうかということだった。

「アイダホのスターライト」は、アル中や麻薬中毒のリハビリ施設にいる男が色んな人々にあてて書いた手紙を、ただただ羅列していく短篇である。宛先にはおばあちゃんや兄貴や妹や友人宛てや医者宛てという比較的まともなものもあれば、サタン宛て、法王宛て、などあり得ないものもある。内容はもう、ほとんど支離滅裂である。リハビリ施設での出来事や周囲の人間のこと、罵倒や愚痴、錯乱した思い出話などだ。

手紙の書き手は麻薬をやり、銃で撃たれ、アル中になったという典型的な社会からの脱落者で、間違いなく『ジーザス・サン』の破れかぶれ的世界の住人である。

「首絞めボブ」ももうひとつの『ジーザス・サン』的短篇で、これは車を盗んで事故り、刑務所に入った男が語るストーリーである。内容は刑務所にいる囚人仲間や彼らが引き起こす出来事だが、囚人仲間の一人ダンダンは『ジーザス・サン』にも繰り返し登場した人物だ。「ダンダン」という短篇まである。つまりこの短篇は、名実ともに『ジーザス・サン』の続編だと言っていいだろう。

刑務所には他にもBDや首絞めボブと呼ばれる囚人がいるが、首絞めボブというのは自分の妻を殺した後、妻の鶏をしめて食べた男だ。彼は仲間たちがみんな人殺しをするだろうと予言し、その予言は大体当たる。ダンダンやBD含め、彼らは出所した後も誰一人まともな生活ができない。彼らはやみくもに破滅に突っ込んでいく以外、生きるすべを知らないのである。

「墓に対する勝利」は、うってかわってダーシーという作家の話。語り手は、やはり作家で大学で講師もやっている「僕」。ダンダンや首絞めボブとは全然違う世界の住人たちだが、しかし語られる出来事の狂いっぷりは同じかそれ以上である。

この短篇はまずダーシーがどんな作家かをエッセー風に紹介し、次に「僕」が人に頼まれてダーシーの様子を見に行った時の話になる。ダーシーは、今家の中に死んだ兄と義姉がいると主張する。「僕」はそんなはずないと説得しようとするが、ダーシーとまったく会話が成立しない。この部分の、「僕」とダーシーの超オフビートなやりとりが読みどころだ。そして再び彼の家を訪問した「僕」は、ケガをしたダーシーを病院に担ぎ込む。

それ以外にも、「僕」が世話を続けて最近死んだ友人リンク、リンクの前妻でアルツハイマーのリズ、リンクの世話係だったミセス・イクスロイなどが登場し、それらの死と狂気に関するエピソードが混沌と混じり合う。いわばこれは死と戦い、戯れ、あるいは親しくつきあう人々の中へと分け入っていく短篇で、全篇が死の予感に満ち満ちている。

最後の「ドッペルゲンガーポルターガイスト」は、「私」と私の教え子である詩人マークの物語で、エルヴィス・プレスリーへのオブセッションが題材。マークは死んだ兄が「双子のいない双子」、つまり生まれる前に片方が死んでしまった双子であったため、兄のプレスリー・コレクションを引き継ぎ、それが彼の人生のオブセッションとなった。なぜならエルヴィス・プレスリーも「双子のいない双子」だったからだ。

そしてマークは才能ある詩人であるにもかかわらず、死産だったエルヴィスの双子の兄弟が実は生きていて晩年エルヴィスとすり替わった、という陰謀論を証明しようと全精力を傾ける。高価な手紙を買ったり、弁護士を雇ったり、墓を掘り返して逮捕されたりする。優秀な詩人がこんなことに金と人生を浪費していることを見ていられない「私」は何度も忠告するが、マークはこのオブセッションから離れることができない。そんな話である。

最後はようやく終わったかと思わせて、実は終わっていないという含みのある結末を迎える。それどころか「私」がマークの兄の生まれ変わり、というとんでもない話になるのだが、この異常なオブセッションがなんとなく霊や天国とリンクしてしまうのが、いかにもデニス・ジョンソンらしい一篇である。

さて、以上五篇だが、私が好きなのはやっぱり『ジーザス・サン』の次の段階に進んだかのような、普通人を語り手に配した三篇である。それぞれ特徴があって、ざっくり印象を言うと、一番さりげなく精妙な「海の乙女の惜しみなさ」、一番破天荒でオフビートな「墓に対する勝利」、一番力強く端正な「ドッペルゲンガーポルターガイスト」という感じだろうか。

前短篇集『ジーザス・サン』も迫力があったが、正直第二短篇集がここまで素晴らしい作品集だとは思わなかった。どんどん逸脱しながら刺激的かつビザールなエピソードを自在に繰り出し、読者を翻弄する想像力。そして文章に結論を出さず、こじんまりと収束させず、アクロバティックに美しく着地させるテクニック。

デニス・ジョンソンが本国アメリカでWriter's writer's writerと呼ばれているのも納得である。