左手のための小作品集

『左手のための小作品集』 J・ロバート・レノン   ☆☆☆☆

この短篇集というか掌編集の日本語訳が出るのを、私はずっと待ちわびていた。以前、柴田元幸氏・編集責任の雑誌『MONKEY』に掲載された掌編三つを読んで、なんとあか抜けた掌編だろうと感嘆したからだが、本書には同じような掌編が100篇も収録されている。ちなみに著者のファーストネームはジョンなので、この人の姓名は冗談抜きでジョン・レノンである。

100篇とはハンパない数だが、といっても題材やプロットの展開、オチの付け方などのバリエーションは幅広く、多少のパターンは感じられるにしても決して焼き直しが多いとは感じさせない。この柔軟な発想力はやっぱり凄い。日本には星新一というショートショートの巨匠がいるが、レノン氏の掌編はSFではないし、またプロットを捻ってオチをつける、いわゆる「意外な結末」タイプでもなく、ちょっとボルヘス的な観念の遊びが入っているところが特徴であり、最大の魅力だと思う。このスタイルで100篇もの掌編を書くのは相当な力技だったに違いない。

観念の遊びというだけじゃよく分からないと思うが、たとえば村上春樹の短篇のような、どことなく気がかりな、割り切れない感覚をもたらすテキストを思い浮かべてもらえばいい。題材はすれ違いや行き違い、偶然、または意味ありげな暗号などが多い。はっきりとアンリアルな掌編もあれば、そうでもないものもある。文体は簡潔でスマート、アイロニー色が強く、ブラックユーモア的なものも多い。

たとえば、『MONKEY』に掲載されていたとても短い「道順」は、こんな話である。友人の息子とそのフィアンセの訪問を待っている夫婦の家へ、それらしきカップルがやって来る。ところが二人とも薄汚く、非社交的で、しかも女性は明らかに妊娠している。ショックを受けながら夫婦はご馳走を振る舞い、やがてカップルは去る。その後すぐ、本物のカップルが訪ねてくる。さっきのカップルは別人だったのだ。夫婦は本物の二人をレストランに連れていくが、意識高い系の自慢話を聞かされて、なんと鼻もちならないカップルだろうと考える。その後しばらく、夫婦はあの薄汚れて妊娠していた偽者カップルの再訪を期待するが、彼らはもう二度と現れない。

とても短くさりげないが、見事な掌編だと思う。まずカップルの入れ替わりがあり、非日常による日常の浸食がある。オフビートなユーモアと不条理感が醸し出される。やがて謎が解け、同時に意味の転倒が起きる。待ちわびたカップルは鼻持ちならず、夫婦は偽者カップルの方に共感してしまう。が、彼らは二度と戻って来ない。そもそもなぜ彼らがやってきたのか分からないし、なぜ夫婦が彼らの再訪を願うのかも分からない。分からないが、そこには何かしら気になるものがる。リアルな、本質的なものがある。このモヤモヤした感じこそ、優れた小説のあかしである。

本書の100篇全部がこのレベルとは言わないが、全体として十分に高品質な作品集だと思う。収録作は七つのカテゴリに分類されていて、それぞれ「地方と都市」「謎と混乱」「嘘と非難」「仕事と金」「親と子ども」「芸術家と大学教授」「運命と狂気」とタイトルがついている。掌編の長さはほとんど、1ページから3ページ程度である。

では、「道順」以外の私のフェイバリット作品をいくつか紹介したい。

まず「模倣者たち」。遺書を残して自殺した若者の影響で模倣者が多発するが、後でそれが自殺ではなかったことが判明する。辛辣なアイロニーが印象的な一篇で、そもそも自殺の模倣とは何なのかという形而上学的な問いがある。欠けていた文字が出て来て、遺書(とされていたメモ)の意味がガラッと変わってしまうのもおかしい。

「下線の引かれた頁」では、夫のちょっとした思い込みからある夫婦が離婚するが、後でその思い込みが間違いだったと分かる。すると離婚も間違いだったことになる。ますます状況が錯綜し、二人はセラピーを受けなければならなくなる。些細な思い込みや行き違いが人間の心に影響し、ついに人生を歪めてしまう一例…なのだろうか。

「夕陽」は私が大好きな一篇で、外国人に「トイレ(toilet)はどこですか?」と聞かれたのを「夕陽(twilight)はどこですか?」と聞き違えるエピソード。このちょっとした間違いが予想外の美しい結末へと繋がっていく。「トイレ」と「夕陽」の言葉遊びがユニークだし、「夕陽はどこですか?」という質問そのものもなんだか面白い。

「以前の車」も不思議な掌編で、自分の古い車を売った後、あとでその車がレストランの駐車場に停まっているのを見かけて、買い戻そうとする。車が悲しげに見えたというのも面白いが、何より彼の最後の行動(ジャッキを盗む)の意味がさっぱり分からず、ひどく奇妙な余韻を残す。

「六十ドル」は同じ年の同じ町で20ドル札を3回拾ったという話で、なんとなく意味ありげに思えるけれども、果たして良かったのか悪かったのか分からない、という話。本書には意味がありそうでない、みたいな話が多いが、意味とは人間が勝手に事象に付与する幻想だから、意味と無意味は同じものなんじゃないの、というようなアイロニーを感じる。

「違い」も不思議な掌編で、父の死の衝撃で中年の危機を迎えた男がオリーブを食べ、その後プラムを食べ、プラムに貼ってあったシールをはがしてオリーブの蓋に貼る。するとそこにまったく同じシールが貼ってあり、それが父の死の直前に自分が貼ったものであることを思い出し、その偶然のせいで衝撃が和らぐ、という話。なぜこれで衝撃が和らぐのだろうか。よく分からないが、これも人間の心の不思議な働きが題材になっている。

きりがないのでこの程度にしておくが、大体どんな掌編集なのか感じは掴んでいただけたと思う。これのどこが面白いの、という人が大勢いそうだが、分かる人には分かるはずだ。私もなぜか、こういう掌編が大好きなのである。