ブルックリン・フォリーズ

『ブルックリン・フォリーズ』 ポール・オースター   ☆☆☆☆☆

ポール・オースターは私の中でいまひとつイメージが定まらない作家で、初期の『幽霊たち』『最後の物たちの国で』の頃はカフカ的不条理感を漂わせた幻想寓話の作家という、どちらかというと線が細い観念型作家のイメージだったが、『偶然の音楽』『オラクル・ナイト』あたりでは起伏に富んだプロットと盛りだくさんのディテールでぐいぐい読ませる、骨太の物語作家としか思えない。もちろん作家は変わるものだが、初期とその後でここまでイメージが変わるのは珍しいんじゃないか。少なくとも私にとっては珍しい。

まあ私もオースターを全巻読破したわけじゃないのでえらそうなことは言えないが、そんな定まらないイメージのまま先日この『ブルックリン・フォリーズ』を読んだら、これがまたこれまで読んだどの作品よりポジティヴで元気で波乱万丈でリーダビリティ抜群という、まるで池井戸潤並みにエンタメな小説だった。しかも『オラクル・ナイト』などと同様、現代社会や文学やサブカルチャーについての遊戯的考察や批評性もたっぷり盛り込まれていて、イアン・マキューアンに通じる知的な愉悦も味わえるというシロモノだ。

しかし、何と言っても印象的なのはこの明朗闊達さ、晴れ渡った青空のような爽快感である。訳者の柴田元幸氏はあとがきで本書のことを「オースターの全作品の中でも、もっとも楽天的な、もっとも『ユルい』語り口の、もっとも喜劇的要素が強い作品だと言ってひとまずさしつかえないと思う」と書き、楽天性とおおらかさを二大特徴として挙げているが、まったく同感だ。

ざっとあらすじを紹介すると、主人公は離婚して肺ガンに罹り、もはや死ぬ場所を求めてブルックリンに引っ越してきたという60歳ぐらいの元保険外交員ネイサン。そのブルックリンで彼は偶然、優秀な医者になっているはずがおちぶれて古本屋の店員をやっている甥のトムとばったり会い、それをきっかけにトムの不器用な恋のアドバイザーとなり、古本店主のハリーに紹介されて刑務所にいた過去を打ち明けられ、ハリーが企む詐欺に巻き込まれそうになり、自分は自分でウェイトレスのマリーナに恋をし、その恋が悲劇的な終わりを迎えたと思ったら、遠くに住んでいるはずの姪の子供ルーシーが転がり込んで来て…とどんどん話が広がっていく。息つく暇もないとはこのことだ。

要するに、もはやひとりぼっちで死ぬだけのはずだったネイサンの目の前に色んな人々が現れ、それぞれの個性や生き方でネイサンに影響を与え、またネイサンもネイサンで、それぞれが抱える人間関係や悩みにどんどん関わっていく。時には積極的に、時にはやむを得ず。

ネイサンがウェイトレスのマリーナに恋するエピソードで明らかなのだが、彼は色んな悩みを抱えながらも根は楽天的な人間だ。人生を愉しもうとし、そのために少しでも行動することを良しとする。が、時には失敗し、ひどい結果を招くこともある。そんな時彼は誰もがそうであるように後悔し、苦しみ、自分を責める。決してどんなことにもへこたれない、鉄の神経の持ち主ではない。が、そうやって喜んだり苦しんだりしながら、彼は先へと進んでいく。人生はもがきながら前進するしかないんだ、とでも言うように。

実際、楽天的といってもこの小説内では決して楽しいことばかりが起きるわけじゃない。悲しいこと辛いこともたくさん起きる。物語の後半ではハリーが騙されて非業の死を遂げるし、ルーシーの母親オーロラは宗教気違いの夫からひどい虐待を受ける。が、オーロラの苦境を知ったネイサンは敢然と腰を上げて、彼女の救出に向かう。また彼は長いこと実の娘レイチェルに拒絶され、絶交されていたけれども、諦めずに呼びかけ続けることで最後には仲直りする。

この小説の楽天性は決して甘いご都合主義から生まれるのではなく、ネイサンの、辛くても悲しくてもあえて人間関係にコミットしていこうという決意、そして姿勢から生まれていることに気づかなければならない。

本書がどれほどドラマ性たっぷりかは大体分かっていただけたと思うが、こうしたメインプロットに加え、詐欺師にして同性愛者ハリーの波乱万丈の過去や、優秀で将来嘱目されていたトムがいかにして失墜したか、などのサブプロット、更にはポーやホーソーンに関する文学談義、ハリーが晩年のユートピアとして夢見るホテル・イグジステンスに関する議論など、刺激的な文明批評や考察が次から次へと登場する。こうして、まるで滋養たっぷりの濃厚スープみたいな『ブルックリン・フォリーズ』の世界が出来上がる。

さまざまな魅力に溢れる本書だが、オースターが描くブルックリンという街の魅力も忘れるわけにはいかない。本書を読んで、ブルックリンに住んでみたいと思わない読者はいないだろう。人種や国籍や宗教や経歴がさまざまな人々が雑多に、しかも自由に暮らし、歩いているだけで何か新しいことが起きそうな予感に溢れた街。ブルックリンはオースターが実際に住んでいる場所だが、彼は本当にこの町が好きなんだなということが伝わってくる。

それから場所の魅力という点では、物語の中盤にネイサンやルーシーがしばらく滞在するヴァーモントのチャウダー・インも強烈な印象を残す。これまた変わり者のオーナーが経営するこの民宿で、ネイサンはこれこそ老後を過ごすのに理想的な「ホテル・イグジステンス」ではないだろうかと考え、半分白昼夢のようにして未来の田舎暮らしを夢見る。この章に溢れる素晴らしい幸福感は、本書の楽天性とおおらかさの大きな源泉となっていると思う。

さて、このように幸福感と人生の歓びに溢れた本書だが、実はそこに一抹の暗い影がさしていることは、柴田元幸氏があとがきで指摘している通り。つまりこれは西暦2000年の物語であることが途中で分かるのだが、米国に住んでいる人間ならば、2000年と聞いてただちに思い浮かべるのは911だ。だから私はこれが2000年であることを知った時、ははあ、きっと後で911が絡んでくるなと思ったのだが、読んでも読んでも出てこない。終わり近くになっても出てこないので、なんだ結局関係なかったのかと思ったら、とても微妙な、それでいて重大な関係があることが最後の最後に分かる。

そしてもちろん、そのことがこの小説の結末をただハッピーなだけではない、とても複雑な余韻を孕むものにしている。この小説の最後のページを読み終えた時、私はほとんど戦慄を禁じ得なかった。と同時に、オースターの作家としての企みの深さに震撼させられた、と言ってもいい。

最後に付け加えるなら、本書は登場人物たちがみんな魅力的で、それも本書を読む大きな悦びの一つだった。主人公のネイサンは最初登場した時は冴えない老人のように見えたが全然そんなことはなく、最後にはこんなおじいちゃんになれたらいいなと思ったし、生真面目なトムも、タフで気難しい少女ルーシーも、そして詐欺師でいい加減なハリーでさえ光り輝いている。

どこまで悪いことができるかやってみないと気がすまない、なんていうメチャクチャなハリーの性格も、まあ一般社会的にはもちろんダメなのだが、その前向きな姿勢、生きることへの好奇心という一点においては、どこか人生を豊かにするためのヒントを含んでいるような気がする。

つまり、明日は何が起きるだろうかという好奇心、そして期待感。幸福とはすなわち幸福の予感のことだ、とは確か映画『未来よ こんにちは』の中のイザベル・ユペールのセリフだったと思うが、だとすると幸福になれる能力とは、どんな時でも未来に好奇心を持ち続けられる能力のことなのかも知れない。