『恋』 ジョセフ・ロージー監督   ☆☆☆☆★

手持ちの日本版DVDで久しぶりに再見した。やっぱりこれは深みとコクがあるいい映画である。パルムドール受賞作と聞いてつい構えてしまった初見時は、きれいでエレガントだけどパルムドールにしては強烈でも衝撃的でもない、こじんまりした映画だなと思った記憶がある。メロドラマ風のストーリーや、子供の目を通した回想という抒情性もその印象に拍車をかけた。つまり、ガツンとくるような映画ではなかった。

しかし間をおいて今回観返してみると、さりげない中に散りばめられた老練な仕掛けや奥深さ、そして奇妙に心に残る不穏さに気づく。ジョセフ・ロージー監督の代表作『召使』は観客を不安に陥れるダークな心理劇で、アイロニーと残酷性、人間に対する斜に構えた姿勢が特徴的だが、優雅なメロドラマ風のこの『恋』にも実は、これらの要素がすべて、確実に埋め込まれている。

ちなみに本作の原題は「The Go-Between」つまり「仲介者」で、この映画の主人公である少年を意味している。彼は不倫の恋をする男女に頼まれて、恋文を届ける秘密のメッセンジャーになるのである。

舞台は20世紀初頭の英国ノーフォーク州、季節は夏の盛り。広大な領地内にある上流階級のお屋敷に庶民の子レオ(マイケル・レッドグレイヴ)が招かれ、そこで紳士淑女達と休暇を過ごすことになる。みすぼらしい服しか持たないレオが引け目を感じていると令嬢マリオン(ジュリー・クリスティ)が夏服をプレゼントしてくれたりと、さっそく不穏な階級差を感じさせるが、少年のレオは(まだこの段階では)優雅なお屋敷で過ごす夢のようなバカンスにうっとりしている。そして彼は一家の令嬢、美しく優しいマリオンに憧れを抱く。

マリオンもレオを可愛がるが、やがて少年に小作人テッド(アラン・ベイツ)にこっそり手紙を届けてくれと頼む。二人は身分違いの恋人同士だったのだ。こうしてレオは秘密の恋のメッセンジャーとなるが、しばらくしてお屋敷にヒュー・トリミンガム子爵(エドワード・フォックス)が現れ、マリオンとの婚約が発表される。疚しさを感じたレオがマリオンに手紙を届けることを断ると、マリオンは激怒し、「どうせお金が欲しいんでしょう」などとレオを罵倒する。レオはやむなく手紙の配達を続ける。

もはやお屋敷の滞在が苦痛となったレオは、母親に手紙で帰りたいと相談するが、失礼だから我慢しなさいと返事が来る。一方マリオンは婚約者が滞在しているのにテッドとの逢引を止めず、その大胆さは次第にエスカレートしていく。ついに誕生パーティーの日、行方不明のマリオンを探しに出たマリオンの母とレオは、二人の逢引の現場を目撃する…。

映画全篇に渡ってヴィクトリア期英国の雰囲気が充満し、美しい田園風景、森、豪邸、優雅に着飾った人々、水遊び、お茶会、ポロの試合、など絵画から抜け出したような光景がスクリーン上に繰り広げられる。まさに貴族の世界だ。そして令嬢マリオンを演じるジュリー・クリスティの美貌と気品。更に、それらのすべてが遠い過去の、少年だった語り手の甘美な回想として描かれることによって、この美しくもはかない夢幻的世界は完成する。

そしてその夢幻的世界の中では、同時並行的に二つの物語が進行していく。といってもその二つは表裏一体なのだが、一つはもちろんマリオンとテッドの不倫の恋の物語、もう一つは年上の令嬢に恋する少年レオの幻滅の物語である。いずれも一つだけ取り出せばいかにもメロドラマで、ありがちな題材だが、これが二つ組み合わさることできわめて精妙な効果を上げる結果になっている。

つまり、マリオンとテッドのラブストーリーは少年レオの目から見ると、おとなの世界の理不尽、欺瞞、あるいはその醜さの象徴なのだ。最初はマリオンが喜ぶので手紙を届けているが、やがてトリミンガム子爵に好感を持つようになり、彼を裏切る行為に罪悪感を抱く。だからもう手紙を届けたくないとマリオンに伝えるのだが、これを聞いたマリオンは豹変し、別人のような残酷さで少年を罵る。「どうせお金が欲しいんでしょう!」のセリフに、それまで隠されていた階級意識が滲み出る。マリオンはレオに優しく振る舞いながら、実は貧乏人の子供と蔑んでいたのだ。

おまけに彼女は、婚約者を裏切ることにまったく何の罪悪感も抱いていない。美しく優しかったマリオンは、テッドを愛しながらヒューと婚約して恥じることがない。レオは衝撃を受ける。少年の淡い憧れは砕け散り、苦い幻滅がそれに取って変わる。おとなとは、そしておとなの世界とは、なんて醜いのだろう。

この苦い衝撃は、間違いなく残酷な心理劇の作り手ジョセフ・ロージーのものだ。ところがその反面、これはやはり一組の男女の、とても悲劇的なラブストーリーでもあるのだ。この物語はもっぱらレオの視点から語られるため、マリオンとテッドが人目をしのんで会い、愛を語り合う場面は一度も出てこない。だから観客は少年レオの幻滅に共感し、マリオンとテッドの不倫の恋には批判的になるだろう。

しかし結末近く、数十年の後にレオと再会したマリオンの告白から、マリオンが実は心からテッドを愛していたことが分かる。テッドは無骨ながらも優しい人間で、レオはトリミンガム子爵と同じようにテッドにも好感を持っていた。二人の愛は不倫だったが、しかし本物だったのである。そしてその結末はあまりにも悲劇的だった。年老いたマリオンは、苦しんでいる自分の子供に伝えてくれとレオに頼む。あなたは父と母の本物の愛情から生まれた子供なのだ、だから誰恥じることなく生きて欲しいと。

このように、この映画にはマリオンとテッドのラブストーリーを「欺瞞であり、おとなの醜さ」として見る視点と、「悲劇的な、真実の愛」として見る視点の両方が共存し、拮抗している。もしこれがマリオンとテッドの不倫愛だけの物語だったら、よくある一面的なメロドラマになっていただろう。しかし、そこに仲介者として少年レオを介入させ、彼の目から見た幻滅の物語を組み合わせたことで、この映画は素晴らしい多義性を獲得した。

さらに、ジョセフ・ロージー監督は物語の進行に合わせて徐々に不安感を亢進させていく。レオは秘め事に巻き込まれたことに罪悪感を抱くが、破滅の直前、実は誰もがこの不倫行為を知っていることに気づく。皆、知っていて黙っている。マリオンの母親もそうだし、父親もそうだし、婚約者のトリミンガム子爵でさえそうだ。これがレオに更なるショックを与える。雨の誕生パーティーの場面、マリオンの不在を前に皆が沈黙するシークエンスは恐ろしい。

物語に埋め込まれた数々のシンボリズムも効果を発揮している。たとえばマリオンの婚約者トリミンガム子爵の右頬には、誰もが気づかずにはいられない深い切り傷がある。これが裏切られた男のしるしであることは明白だ。またレオが黒魔術に凝っていて、お屋敷の庭で毒のあるベラドンナを見つけるのもその一つ。大人の欺瞞に耐えられなくなったレオは皆に毒を飲ませようと夜中にベラドンナを取ってくる。結局毒は捨ててしまうが、数十年後にマリオンと再会した時、彼女は自分の孫が「呪われている」と告げる。そしてその呪いを解くのは、レオの役目なのだ。

ちなみに、遠い過去の回想譚の最後になって現在が登場するのは珍しくない手法だが、この映画の場合、回想の中にまで現在の断片的光景がたびたびインサートされ、ミステリアスな効果を上げている。何の説明もないので、この老人は誰で、何をしているのだろうと観客は不思議に思う。これもまた、暗示的手法で観客を宙づりにするロージー監督らしいテクニックだ。

このように、『恋』は英国ヴィクトリア調のけだるい美しさの中で、不穏で痛々しい愛と少年の幻滅が徐々に進行するという、非常に陰影に満ちた物語である。その一見メロドラマティックな、あるいははかなく抒情的な装いの下には、精妙な物語構造と暗く残酷なアイロニーが息づいている。そしてそんな映画全体を通して、ミシェル・ルグランのピアノとストリングスによる音楽が、不穏で甘美な旋律を奏でているのである。