火垂るの墓

火垂るの墓』 高畑勲監督   ☆☆☆☆☆

二度と観るまいと思っていた『火垂るの墓』を、ついまた観てしまった。前観たのは確か大学生の頃だったと思う。御多分にもれずあまりの悲しさに鬱状態に陥り、こんな悲しい映画はもう二度と観るまいと心に誓ったのだが、それから数十年もたっていいジジイになったなった今なら大丈夫だろう、と多寡をくくったのが間違いだった。

最初は余裕だった。清太が駅で野垂れ死ぬシーンから始まるのだが、ちゃんと心の準備はできている。ところが駅員が桜ドロップの缶を投げ捨て、草むらからホタルの群れが舞い上がって、そこに節子の姿が浮かび上がるともうダメである。節子は清太の遺体を見て駆け寄ろうとするが、隣に清太が立っていることに気づき、微笑む。二人はすでに死者なのだ。清太は節子に桜ドロップの缶を渡し、節子がそれを大事そうに胸に抱きしめる。この時点でもう涙腺決壊。開始後5分で撃沈した。

が、いったん心に決めたことは貫徹する主義の私は最後まで観続け、やっぱり数十年前と同じように滂沱の涙を流し、鑑賞後はプチ鬱に陥ってしばらく何も手につかなくなった。私の数十年間の人生経験は『火垂るの墓』の前ではまったく無力だったわけである。

さて、しかしながら私とて数十年前からまったく進歩がなかったわけではなく、今回新たに気づいたこともある。前観た時は悲しさのあまりこのアニメを「お涙頂戴もの」と決めつけ、芸術的なクオリティについては特にどうとも思わなかったのだが、今回その点で大きく認識を改めた。確かに子供が死ぬというあざとい「お涙頂戴」シチュエーションではあるが、それだけだったら他にも類似の映画は色々あり、この『火垂るの墓』だけがここまで観客を激しく動揺させる理由を説明できない。

なぜ、『火垂るの墓』はこれほどまでに悲しいのだろうか。そして観た人間に、「これまで観た中でもっとも悲しい映画」「いい映画だと思うけれども二度と観たくない」「泣かせるどころか、心をへし折る映画」とまで言わせるのだろうか。このアニメは米国でもソフトが販売されているが、日本だけでなく米国アマゾンのカスタマーレビューにも上記のような感想がずらずら並んでいる。つまり、この映画の並外れた破壊力は日本の歴史や文化を知っていることに依存せず、普遍的だということになる。

一見、悲しい理由は明らかである。まだ幼い、愛らしい節子が死んでしまうからだ。無邪気でけなげな節子が丁寧に描写され、観客に十分感情移入させた後で、満足に食べ物がないことによる衰弱またはそれが原因の病気で死んでしまう。しかし考えてみると、子供が死ぬ映画は他にもたくさんある。なぜ節子の死は、これほどまでに耐え難い感覚を私たちにもたらすのか。

一つ目の理由は、私たちが兄である清太の目を通して節子の死を見る、ということにある。この映画のナラティヴは、清太が歳の離れた妹・節子の死を観客に物語る構造を持っている。従って観客が感情移入する対象は実は節子ではなく、兄の清太なのである。そして清太の節子に対する思いの中心には、明らかに自責の念がある。自分が救うべき幼い命を救えなかった、という自責の念である。もちろんその前提として、歳の離れた幼い節子への深い愛情がある。

つまり観客は、ただ幼い少女の死を見せられるのではなく、彼女の庇護者たるべき兄の目と激しい自責の念を通して、その死を見ることになるのだ。これが耐え難くないわけがない。

庇護者といっても清太はまだ14歳の少年であり、戦時中に幼い妹を守れるほど十分な力はない。しかしそんな彼しか節子にはいないのだ。しかも、節子はそんな状況に恨み言ひとつ言わない。それどころかそんな弱い兄、ほとんど無力に等しい清太を心から頼りにし、かつ愛している。生活に困った清太は盗みを働くようになり、おとなに捕まって殴られ、交番に突き出される。清太は土下座して謝るが許してもらえない。そんな時節子は「兄ちゃん、兄ちゃん!」と彼を呼び続け、その身を案じて交番まで後をついていく。

あるいはまた、食糧を調達してくると言う清太に、行かなくていいからそばにいて欲しい、と懇願する。節子は兄を愛しているだけでなく、このふがいない兄に全幅の信頼を寄せているのだ。

ところが、そんな節子は爆弾でも空襲でもなく、衰弱で死んでしまう。この映画には、自分だけが頼りだった幼い妹を守り切れず、無残に死なせてしまった兄の悔いが充満している。観客はそのコンテキストで節子の死を追体験しなければならない。つまりこの映画では、ただ子供の死を見せて涙を誘うというだけではなく、最愛の妹を自分の不甲斐なさゆえに死なせてしまった兄の悔恨が主題になっているのである。

二つ目の理由は、節子のキャラクター造形の緻密さである。まだ4歳の節子が清太の目を通して描かれるのだから、愛らしくいじらしいのは当然だとして、可愛らしい子供を登場させてアピールする無数の映画と比較してみると、本作のディテール描写のリアリズムは抜きんでている。

桜ドロップの缶を胸に抱くしぐさや、いつもお気に入りの人形を手放さないこと、急に脈略なく「兄ちゃん、おしっこ」と言い出すことなどはもちろん、幼い節子の愛らしさの表現として効果的だが、私はそれよりも、節子の意外におとなびた一面がところどころに描かれていることが重要だと思う。清太が隠していた母の死を実は叔母から聞いて知っていた、けれども清太には黙っていたこと、あるいは連れて行かれた清太を心配して交番の外でじっと待っているなど、4歳の節子が幼いながらも兄を気遣っている、あるいは自分なりに兄を助けようとしていることを暗示する場面があちこちにある。

これらのシーンがあることで、節子は単なる愛らしさの記号を抜け出し、生身の人間となる。複雑な内面を持った生身の人間として、本当にそこにいるようなリアリティを感じさせるのである。

主にこの二つの要素が組み合わさることによって、『火垂るの墓』は観る人の心に特別に深い爪痕を残す映画となった、というのが私の意見だ。一見あざといお涙頂戴映画のようだが、高畑勲監督の戦略は実のところ緻密で奥深い。そして巧みだ。清太が盗みにはまっていく部分では、彼が悪徳に快感を覚え、盗むことで高揚感を覚えるようになっていく描写まである。ただ清太に感情移入させて泣かせるだけのメロドラマならば、こんなものは不要なはずである。彼をひたすら「いい子」に描けばいいのだ。

しかしそれをしないところに高畑監督の表現者としての誠実さがあり、この映画に多義性、すなわち高い芸術性をもたらしている。よく反戦映画と言われる本作だが、監督はこれを反戦映画ではないと発言しているという。確かに直接的な反戦メッセージなどはなく、ただ、辛く厳しい時代に愛する妹を守ろうとして果たせなかった兄の無念があるのみである。だからこそ、この映画には普遍性があるのだと思う。

ところで、日本のレビューサイトやアマゾンのカスタマーレビューでは、この映画について「二人の子供の死に関してあの叔母は悪くない、悪いのは清太だ」「清太の愚かさが原因なので共感できないし、泣けない」というような意見が、比較的多く見られる。一方、米アマゾンのレビューではこの手のコメントは皆無だ。「あの叔母は薄情で不公平だが、悪人ではない」というコメントがある程度だ。

私は普段日本人よりアメリカ人の意見が正しいなどとは全然思わないが、これに関しては、どうも日本の側に違和感を覚える。これはもしかしたら今の日本独特の風潮ではないかと思う。たとえばブラック企業で自殺者が出ると「100時間残業程度で死ぬなんて情けない」「辛抱が足りない」みたいな意見が出ることに似ている。つまり、ミスや、落ち度や、弱さ、すなわち「未熟であること」に対する極端な非寛容、そして逆にそのような非寛容さに対しては寛容、という風潮である。

当然ながら14歳の清太には落ち度があり、ミスがあり、愚行がある。そしてその「悔い」こそが本作の中核部分になっていることは、前述した通り。しかし、そこで「だから共感できない」となるのは異様に感じる。14歳の少年に落ち度があると、餓死しても自業自得なのだろうか。そうではなく、そのような落ち度や弱さは14歳の少年にとっては(あるいはどんな人間にとっても)宿命なのであって、だからこそ私たちは清太の悔恨に「共感」できる、のではないだろうか。

それから、「叔母の言ってることは真っ当」「我慢できない清太が悪い」との意見も不思議だ。彼女は清太の器には食べ物の具をわざと入れないようにしたり、夜、母恋しさに泣く節子を怒鳴りつけたり(そもそも母の死を節子に教えたのは叔母であることがあとで分かる)、二人に「疫病神だ」と言い放ったりする。私の感覚では、米アマゾンのレビューの通り「悪人ではないにしても酷薄で不公平」ぐらいが妥当だと思う。彼女を真っ当と言うのは、まるでブラック企業で「お前らダメ社員をおれが鍛えてやってんだ」とうそぶくパワハラ上司を、「言ってることは真っ当」「我慢できない社員が悪い」と言うようである。

こうした意見が多く見られる現象は、今日本で「落ち度やミスをする者、弱さがある者はどうなっても自業自得であり、同情に値せず、従って救いの手を差し伸べるには値しない」という過剰な自己責任論がはびこっているからではないだろうか。節子が死に、清太が死んでも、それを放置し傍観した周囲のおとなに責任はなく、悪いのは清太らしいのである。

内田樹氏はその著作の中で、共同体は自立した生活力がない弱者、たとえば子供や老人や病弱な者を救っていけるかどうかがきわめて重要で、それができない共同体は早晩滅んでいく、という意味のことを書いている。私も同意見だ。そういった、弱者を切り捨てずに救済していく態度は「甘やかし」ではなく、健全な共同体が持つべきクリティカルな機能の一つなのである。弱い者は斬り捨てられて当然、という共同体は、もはや病んでいる。

Wikipediaによれば、高畑監督はかつてこう述べている。「当時は非常に抑圧的な、社会生活の中でも最低最悪の『全体主義』が是とされた時代。清太はそんな全体主義の時代に抗い、節子と2人きりの『純粋な家族』を築こうとするが、そんなことが可能か、可能でないから清太は節子を死なせてしまう。しかし私たちにそれを批判できるでしょうか。我々現代人が心情的に清太に共感しやすいのは時代が逆転したせいなんです。いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします」

これは1988年の発言である。もしかすると、「我々現代人が心情的に清太に共感しやすい」時代はもはや過ぎ、「あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代」が、すでに来ているのかも知れない。