家族を想うとき

『家族を想うとき』 ケン・ローチ監督   ☆☆☆☆☆

『わたしは、ダニエル・ブレイク』ケン・ローチ監督の新作を、日本からブルーレイを取り寄せてようやく観ることができた。英語だからアメリカで買っても良かったのだが、日本の方が一か月ほどリリースが早かったのである。暗く重く、見るのがつらいと聞いていたので多少不安があったが、観てみるとやっぱり大傑作だった。五つ星以外は考えられない素晴らしい出来だ。

社会問題告発的という点では『わたしは、ダニエル・ブレイク』とよく似た雰囲気で、今回は宅配便のフランチャイズ・オーナーを主人公に、過酷な搾取のシステムに苦しむ労働者家族の悲劇を描いている。官僚主義と企業の利益最優先主義という違いはあっても、非人間的な仕組みに押しつぶされる人間性という主題は同じだ。ただしダニエル・ブレイクは独り者だったが、今回は家族の物語である。

原題は『Sorry We Missed You』で、つまり受取人が留守の時に宅配業者が残す不在票のフレーズだ。映画のテーマと設定とアイロニーを同時に表現する、とても洒落たタイトルだと思うが、例によってアイロニーを敬遠する邦題では「家族を想うとき」といかにもヒューマニスティックなものに変えられている。この邦題はちょっとミスリーディングなんじゃないかと私が思うのは、この映画は邦題からイメージされるようなハートウォーミングで優しげな映画じゃないからだ。

そうではなくて、本作は過酷な、あまりにも過酷な現実をこれでもかと容赦なく映し出す冷徹な映画である。主人公一家はこの映画全体を通して血を流す。がんばってがんばって、それでもなすすべもなく血を流し続ける家族の姿を、カメラは冷静に観察し、私たち観客に呈示する。観るのがつらい、とはそういう意味だ。

物語は、以前建築業に携わっていたリッキーが宅配ドライバーになり、宅配会社とフランチャイズ契約を結ぶところから始まる。宅配会社のマネージャーは「君は会社に雇われるんじゃなく、個人事業主としてわが社と対等の契約を結ぶ。これは君のビジネスだ。どうだやってみるか?」と言い、リッキーは「はい、私はこんなチャンスを待ってたんです」と発奮するが、このシステムでは配達に使う自動車もドライバーが自分で調達する必要があり、健康保険もなく、労災もなく、もちろん有給休暇もない。休もうと思ったら代理ドライバーを手配する必要があり、それができなければ罰金を取られる。

要するに、一から十まで宅配会社に都合がいいシステムなのである。おまけにドライバーが車から2分離れようものなら携帯デバイスの警告音が鳴り、急用で抜けようものなら罰金が科せられる。仕事初日に他のドライバーから「この仕事は尿瓶が必需品だぜ」と言われたリッキーは「冗談だろ?」と笑うが、これが全然冗談ではないことが後で分かる。

とにかくこうしてリッキーは宅配ドライバーの仕事を始めるが、介護士である妻のアビーも同じように大変な仕事をこなしている。被介護者の家庭を訪問し世話して回るのだが、リッキーの車を調達したために移動は全部バスになり、粗相した老人を時間をかけてケアしても会社は支払いしてくれず、土曜の夜にも呼び出される。

それでも二人は家を買うために必死に働くが、その結果子供たちと過ごす時間は減り、以前は成績が良かった長男は不良グループとつるんでトラブルを起こすようになる。長男の停学でリッキーは学校に呼び出され、万引き事件でもまた警察に呼び出される。やむなく仕事を抜けて行こうとすると、罰金を科される。子供の学校から急に呼び出されたんだ、と説明してもまったく相手にされない。

まるでギリギリと締まっていく鉄の罠の中に捕らえられたようなものだ。こうしてリッキーとアビーは徐々に疲弊していく。二人とも気が短くなり、些細なことで喧嘩をするようになる。長男との仲もますます悪くなっていく。皆が必死に支えようとする家族の絆は、いまや崩壊の危機に瀕していた…。

この痛々しいまでの苦闘のドラマを、ケン・ローチ監督はまるで荘厳なギリシャ悲劇を思わせる圧倒的な品格と緊張感でスクリーン上に繰り広げてみせる。ローチ監督最大の武器は間違いなく、強靭なリアリズムである。『わたしは、ダニエル・ブレイク』と同じく、抑制と、緻密なバランス感覚と、クリシェの排除がその強靭さを支える三要素だ。オーソドックスで奇をてらったところなどまったくない作劇ながら、それが生み出す効果はほとんど驚異的である。一つ一つの場面に切実な臨場感がみなぎり、観客にこれは現実に起きていることだと感じさせずにはおかない。

リッキーの宅配ビジネスの問題点は、最初は小さなトラブルから始まって次第に深刻になっていく。宅配の仕事中に駐車違反のチケットを切られる。渋滞に巻き込まれる。客と喧嘩する。やむを得ない事情で仕事を休むと宅配会社のマネージャーに罵倒され、罰金を科される。自分が買った車だからと休日に家族を乗せてドライブすると、宅配以外のことに使ってはいけない契約だと注意される。自分の車なのにである。

企業が押しつけてくる数々の理不尽に唖然としながらも、リッキーは必死に仕事に取り組む。彼は真面目で、朴訥で、誠実な人間だ。時折苛立ちながらも、家族のために懸命に働き続ける。そしてその妻アビーは稀に見る良妻であり、子供たちにとっては素晴らしい母親だ。観客は一人残らず彼女を好きになるに違いない。まぎれもない善意の人であり、常に思いやりの心を忘れない。彼らは地の塩であり、世の光と称されるべき人々である。しかしそんな二人の必死の努力を、宅配会社の搾取のメカニズムは情け容赦なく粉砕していく。

やがて車のキーがなくなり、強盗に遭い、会社支給のスキャナーを壊される。リッキーが大けがをして病院から電話すると、宅配会社のマネージャーは罰金の話をする。

恐ろしいとしかいいようがないが、これが今私たちが住んでいる社会なのだ。本作はそのことをひりつくようなリアルな感覚を通して教えてくれるが、この感覚は、芝居がかった大仰さを徹底して排除するケン・ローチ監督独特の手法によって達成される。この映画の中では強盗に遭うというような非日常的な事件ですらハリウッド式のわざとらしさはなく、とても自然だ。演出は隅々まで抑制され、淡々としたトーンから逸脱せず、これ見よがしの感傷性は排除される。カメラの視線は一貫して冷静で、観客の感情を煽るよりクールダウンする。このタッチで重厚な悲劇が描かれることで、ウェットな情緒過多やお涙頂戴に陥ることなく、硬質で峻厳なリアリズムが立ち上がってくる。

音楽がほぼゼロなのも、このリアリズム強化に拍車をかける。そしてローチ監督のリアリズムは搾取のメカニズムを理知的に告発するだけでなく、時には家族の細やかな心情をくっきりと浮かび上がらせることもできる。そしてそれがストーリーのダイナミズムと一体化した時、圧倒的な力で観客の心を打つ。

その見事な例を挙げたい。基本的に淡々と進んでいくこの映画の中で、観客の気持ちを大きく揺さぶってくる場面が二つある。一つは、万引きをした長男に警官が忠告するシーン。この警官もまた非人間的なシステムの歯車なのかと思って観ていると、そうではない。彼はうなだれている長男をまっすぐ見ながら言う。君はこの機会に気づかなきゃダメだ、君には、君のことをこれだけ思ってくれる家族がいるじゃないか。それがどれほど恵まれたことか、君は分かっていない。誰もが君ほど恵まれているわけじゃないんだ。

そしてもう一つは、言うまでもなく、アビーが宅配会社のマネージャーに電話越しに叫ぶシーンである。大けがをしたリッキーが病院からマネージャーに電話すると、マネージャーは代理の手配をしたか、しなかったら罰金、壊れたスキャナーも罰金、と告げる。さすがのリッキーもあまりのことに抗議する。するとアビーがその電話を奪い取り、これまでの耐えに耐えた思いを血を吐くようにしてぶちまける。私の夫は病院にいるのよ、命の問題なのよ、一体どういうつもりなの、私の家族をなめないで!

どんな年季の入った映画ファンも、これほどまでにダイナミックに心を揺さぶるシーンには滅多に出会ったことがないだろうと思える、素晴らしいシークエンスだ。耐えに耐えたアビーがついに啖呵を切ったというだけじゃなく、彼女の穏やかで思いやり深い性格、それまでの苦悩の描写、家族間の諍いと涙、それらのすべてが伏線となり背景となって、この場面の迫力を生み出している。アビーはこれを言った後取り乱し、人を罵ってしまった、ああ私、人を罵ってしまったわ、と泣き出してしまう。彼女は本来、こんなことを他人に向かって言う人間ではないのだ。しかしその彼女がここまで追い詰められてしまった。この場面を観て激しく動揺しない観客はいないだろう。

そしてこれをクライマックスとして、物語は収束していくかに見える。バラバラだった家族の絆も、この深刻な事件をきっかけに再び強まったかのようだ。トラブルメイカーの長男も父親の身を案じていたわりの声をかける。こうした家族の仲直りも、ローチ監督の映画ではことさらにさりげなく描かれる。抱き合って涙を流したりはしない。ただ何事もなかったかのように声をかけ合い、ありがとうと呟くだけだ。

しかし、その直後に辿り着くエンディングはおそらくどんな観客の予想をも覆すことだろう。あらゆる予定調査は粉砕される。なんと、問題が収束に向かっているように見えたのは錯覚だったのだ。現実は甘くない。もはや家族がいくらお互いを支え合っても、市場原理が仕組んだ鉄の罠から抜け出すすべはないのだ。リッキーは叫ぶ家族を振り切って、ケガが治っていない体にムチ打って再び仕事に向かう。涙を流しながら。愛する家族を路頭に迷わせないためには、もはやこれしか方法がないのである。

これまで映画の中で起きたすべてのことの論理的な帰結はこれしかないという、凄絶きわまりない結末。壮絶なエンディングという他はない。何より、家長としての責務を放り出したりしない、常に誠実であろうとするリッキーだからこそこうなるという残酷で、皮肉な現実。この映画は、ここまでしっかりと観客に突きつけて終わる。きっと彼らは何とかして逃れるすべを見つけるだろう、なんて甘い幻想に逃げることを許さない。

その意味では確かに、これは観るのが辛い映画であり、ずっしり重い悲劇である。現代社会の狂ったシステムの中でどれほど労働者の家族が蹂躙されているかを、あますところなく描き切ったフィルムだ。と同時に本作は、ただ社会問題を告発するために労働者の苦しみを強調して描いたプロパガンダ映画でもない。この映画の中には現代を生きる苦しさと同時に、家族の心が通い合う安らぎの瞬間や、癒しの瞬間、美しい瞬間もまた数多く描かれている。そこにこの映画の多義性があり、芸術的な卓越性がある。

つまり、本作はその厳しさと苦さにもかかわらず、崇高な美と繊細なポエジーで私たちの心を震わせてくれる映画なのである。こんな素晴らしい映画にはめったに出会えない。