ポルトガル短篇小説傑作選 よみがえるルーススの声

ポルトガル短篇小説傑作選 よみがえるルーススの声』 ルイ・ズィンク+黒澤直俊・編 ☆☆☆☆☆

本書は20世紀後半以降のポルトガル文学のアンソロジーで、編者によればこれまで十分に紹介されて来なかったポルトガル文学を本格的に紹介しようという初の試みであり、現代ポルトガル文学のショーケースとなる作品集を編もうとした、ということである。つまり特定の狭いテーマを掲げたものではなく、とにかく現代ポルトガル文学の中から幅広く、素晴らしい短篇を選んだということだろう。そのせいなのかどうか、素晴らしく充実したアンソロジーになっている。

ちなみに私はアントニオ・タブッキの大ファンであり、リスボンを舞台にしたタブッキの小説を多数読んでいてなんとなくポルトガルには詳しい気になっていたが、言うまでもなくタブッキはイタリアの作家なのだ。ペソアは知っているがそれほど読み込んだわけでもなく、考えてみるとポルトガル文学はほぼ知らないに等しい。なのでこのアンソロジーは私にとって大変新鮮で、また感慨深いものだった。

本書には全部で12篇収録されている。内容はとにかくバラエティに富んでいて、写実的な戦争ものもあればシュールで散文詩的な作品もあり、バロック的な幻想譚や、現代の社会問題をテーマにした作品、ユーモラスな作品、重厚な作品とまったく多彩である。ショーケースとしてはとても良い出来だと思う。

さて、では印象に残った短篇について順に触れていきたい。まず冒頭の「少尉の災難 -遠いはるかな地でー」は戦場が舞台だが、戦争そのものの悲惨というよりも、もっと大きな人生の不条理を描いているような印象を受けた。戦場で移動する途中で地雷を踏んでしまい、そのままの状態で救いを待つ少尉の物語で、ボリス・ヴィアンの「白蟻」に似ているが、結末にちょっとミステリ的な捻りがあって複雑な余韻を醸し出す。プロットの巧みさにどこか洒脱さすら感じさせる、戦争ものと言い切れない広がりを持つ短篇である。

写実的な「少尉の災難 -遠いはるかな地でー」から打って変わって、「ヴァルザー氏と森」は寓話的な匂いがする短篇だ。やっと新築の家を持てて喜ぶ男のところへ、配管工や修理人が次々とやってきて家を解体し始める。プッツァーティの不条理寓話に似た香りがするが、タイトルに引用されているロベルト・ヴァルザーも意識されているようだ。こういうメタフィクショナルな、他の文学作品への目配せみたいなものが、このシンプルな短篇の豊饒さを増している気がする。

「バビロンの川のほとりで」は、有名なポルトガルの詩人カモンイスの晩年の困窮のありさまと、その中で苦しみながら試作を続ける詩人の姿を描く作品。やりきれなさと葛藤が充満する小説世界には、古き良き純文学の苦みがあり、リアリズムと緻密な描写が重厚感を醸し出す。

「植民地のあとに残ったもの」は、しなやかな文体、奇想、先の読めないプロット、他では体験できない独特の読後感を併せ持つ、見事な短篇である。ラテンアメリカ文学みたいな香りがあり、ちょっと饒舌な語り口は豊饒でおおらかな物語性を感じさせる。文体は湿っていて重くなく、軽みがあって時にユーモアさえ感じさせる。そして女性の一人称で語られるストーリーはというと、旅行先で知り合った侏儒の青年とのやりとり、その家族との交遊、そして海辺で起きる青年のメタモルフォセスなのだ。こういう不思議な作品は私の大好物。素晴らしくエレガントな短篇で、完全に酔わされてしまった。

「汝の隣人」はまた違うトーンの作品で、清掃業者として毎日ハードワークに耐え、疲弊している女性の独白である。金持ちが大勢住むマンションで清掃の仕事をした後エレベーターに閉じ込められた住民に気づくが、知らないふりをして帰宅する。そしてそのことで強い罪悪感にかられる。貧しい自分、金持ちの彼ら、彼らは私の隣人なのか、いやそうじゃない、彼らは私よりはるかに恵まれている…。様々な思いが渦巻く。

聖書が告げる「隣人を助けよ」とは、一体どういうことなのか。現代社会の格差問題から宗教の域にまで広がりを持ったテーマで、しかもそれを巧みな独白体でスムースに、しかも抒情的に読ませる。これも他の短篇と同じように、テーマにしても手法にしても、非常に巧緻だと感じさせる作品。

「犬の夢」は散文詩的な掌編で、ある女性の意識の流れを書き出したような作品である。犬に対するアンビバレンツな感情や、種の壁という観念、それから自分の来し方への後悔ぶくみの回想など、色んな観念や思念が混然一体となって言語化されていく。犬を飼いたいのか飼いたくないのかよく分からない女性の混乱した独白のようであり、見方によればオフビートな滑稽さもある。短いが非常に巧緻、かつ豊饒な作品だと思う。

「定理」はまた打って変わり、14世紀の残酷王ペドロと処刑された罪人を題材にした、シュールな作品。この話は「私」という罪人の一人称で語られるが、罪人が処刑され殺された後もずっと「私」が情景を語り続ける。作品のムードはちょっとボルヘス的だが、ボルヘスほど明快な幾何学性はない。その代わり、処刑される罪人の倒錯した世界観や、宗教的法悦の感情が、この短い作品に瞑想的な重みを与えているようだ。

ラストの「東京は地球より遠く」は、実際に東京に住んでいた著者による軽快でユーモラスなエッセー風の短篇で、いくつかの小品に章が分かれている。東京の通勤電車とかオフィスとか休暇の過ごし方とか、日本独特の光景がアイロニーや驚きとともに描き出される。こんな風景はここ以外、宇宙のどこでも目にすることができない、みたいなフレーズが何度も出て来て、日本人としてはちょっと微妙である。でもやっぱり、日本って独特の風習がたくさんある変わった国なのかも知れない。

さて、これまで書いてきた通り本書は実にバラエティ豊かなアンソロジーなので、全体の印象をまとめるなんてことは無謀なのだが、あえて言えばとんがった前衛性と伝統性がうまくミックスされた、いい意味での中庸性が特徴と言えるかも知れない。つまり、現代アメリカ文学ほどクールなポストモダンではなく、従ってあからさまに前衛的でもなく、リスボンの街並みに似て昔ながらの文学的繊細さと抒情性を残している。しかしその一方で、現代文学の冒険性と豊饒さも確実に取り込んでいて、深い思索と内省のうちにそれらを統合している。

決して派手でもなく、最先端でもなく、穏やかで中庸だけれども、作品の深さと質の高さは驚くほどハイレベル。それが私の読後感である。とにかく一つ一つの作品が複雑で、繊細で、しかも巧緻だ。多義性に満ち、しかも独自のポエジーを作り出すことに成功している。本当に素晴らしい。

そんな中であえて私のフェイバリットを上げるとすれば、おそらく「植民地のあとに残ったもの」と「犬の夢」になるだろう。が、この二つの作者はもちろん、日本で単独名義の短篇集が出たら是非読んでみたいと思った作家が何人もいた。ポルトガル現代文学は侮れない。要注目だ。