フェアウェル

『フェアウェル』 ルル・ワン監督   ☆☆☆★

ネットで評判がいいことを知り、iTunesのレンタルで鑑賞した。監督はアメリカ在住の中国人。念のために断っておくと、これは中国映画ではなくアメリカ映画である。

物語はニューヨークで始まる。ビレッジに住み作家を志す中国娘ビリーは、祖国に住む大好きなおばあちゃんナイナイが末期癌で長くないと知り、最後のお別れをするため中国に帰る。中国では末期癌患者に告知しないため、ビリーのいとこの結婚式のため、という名目で親戚一同集まってくる。おばあちゃんの死期を知らないのは本人だけ。アメリカ育ちのビリーは釈然としないが、これが中国のやり方なんだからと周囲に説得される。

みんなに会えて上機嫌なナイナイと親戚一同は結婚の準備をし、先祖の墓にお参りし、やがて盛大な披露宴を迎える。みんながカラオケで歌い、踊り、ナイナイに感謝の気持ちを伝え、感極まって泣き出す者もいる。こうして親戚一同の滞在期間も終わり、ビリーがナイナイに別れを告げる日がやってくる…。

末期癌のおばあちゃんに別れを告げに帰る話なので、当然ながら全体に哀感が強いが、そんな中にオフビートなギャグが散りばめられているのが特徴だ。たとえば、親戚の中にはアメリカに帰化している一家や日本に住んでいる一家もあるのだが、会話の中で「みんな中国人なんだから」「いや、おれはテクニカリーにはアメリカ人だ」などと言い合ったり、死んだおじいちゃんの墓参りで誰かがタバコをお供えし、「彼はタバコは吸わないわ」「吸ってたじゃないか」「死ぬ直前にやめたのよ」「もう死んでるんだからタバコぐらい吸わせてやれ」なんて言い合ったりする。

それから当然、我々日本人やアメリカ人が見ると中国の風習が物珍しくて面白い。これは中国映画ではなくアメリカ映画で、つまりアメリカの観客に見られることが前提なのだから、この面白さは狙ったものだろう。普段の食事や墓参りの様子も違うが、特にクライマックスの披露宴が違う。なんだか盛大な飲茶パーティーという趣きである。みんなが順番にステージに上がってカラオケを歌うのも不思議だ。

そんな独特の雰囲気の真ん中にいるのがヒロインのビリーだが、このビリーの存在感がこの映画のトーンを決定づけていると言っていいだろう。演じているのはオークワフィナという女優さんで、中国系アメリカ人の父と韓国系アメリカ人の母を持つアジア系アメリカ人だ。私は初めて見たが、まあなんというかいつも仏頂面で、猫背で、あんまりかわいくない。このかわいくないヒロインのキャラがユニークなのだ。

不機嫌そうな表情が若さのフラストレーションと苛立ちを、飾り気のない純朴さが心根の素直さを、ニカッと笑った顔のひょうきんさが子供らしい愛嬌をあらわす、というと類型的に過ぎるかも知れないが、こうした多彩な表情を隠し持った「仏頂面」なのである。人形のようにきれいな女優には決して出せない味わいがある。そして何よりも、どんな光景の中に立っていても自然である。

さて、末期癌患者への告知の是非が本作の大きなテーマの一つであることは間違いない。この映画の中ではもうすぐ死ぬことを本人だけが知らされず、周囲は全員が知っているわけだが、アメリカでこれをやったら違法だそうである。日本でもちょっと前までは告知しない習慣だったと思うが(黒澤明の『生きる』でもそうなっている)、今は告知が普通である。

この映画の中でもアメリカ育ちのビリーが「本人だってみんなにお別れを言いたいだろうし、残された時間を有意義に使いたいと思うだろう」というが、周りは反対する。残された日々が苦しくなるだけだ、といって。それでも納得いかないビリーに、ある人物はこうも言う。アメリカでは人の命はその人のものだが、中国では命は個人のものではなく、家族みんなのものなんだ、と。

アメリカ人がこれを観るとかなり奇異に思うのかも知れない。日本人である私たちは両方の考え方が分かる、いわば中間点にいるので、そこまで奇異には思えない。が、まったく同じでもない。微妙な感じである。

いずれにせよ、本人だけが知らず周囲はみんな知っているというこの状況が、悲しいながらも一種シチュエーション・コメディ的な場を用意する。おばあちゃんを囲む全員が演技をしなければならないし、口裏を合わせなければならない。そこに一種のおかしさが生じるけれども、やっぱり悲しい。この究極のトラジコメディ的味わいが本作のキモである。

おかしさと悲しさの間を揺れ動く本作だが、披露宴のステージでスピーチをする時、めでたいスピーチのはずが「お母さん、ずっとそばにいれなくてごめん」とナイナイにあやまりながら泣くビリーの叔父さんには、さすがに涙腺が緩んでしまった。

そして最後、ビリーの一家がナイナイに別れを告げてタクシーに乗るシーンも同じ。ビリーの父親、母親、そしてビリーが笑顔のナイナイに別れを告げる。泣いてはいけない。もう二度と会えないと知りながらも、それを顔に出してはいけないのだ。あんたは感情を隠せない、とみんなから言われるビリーは泣いてしまうんじゃないかと思いながら観たが、彼女もぐっとこらえて、平静を装ったまま別れを告げる。また次に会う時まで、とでもいうように。

こういうところを変に盛り上げず、リアリスティックに抑制しているのがいい。地味だけれども、誠実な作風だ。

おばあちゃんの病気に加えて、若いビリーの人生の迷いももう一つの重要なテーマである。彼女はニューヨークで夢に向かってあがいているが、うまくいかない。頑張って書いた作品が認められない。そんな時にナイナイのことが重なり、このまま中国に帰ろうかと考える。彼女はこの物語の間中、大好きなナイナイと別れる悲しみ、そして自分の未来が見えない苦しさに悩み続ける。

ビリーの部屋の中に小鳥が飛び込んできて出口を見失う場面が二度出て来るが、あれはビリーの焦燥を形にしてみせたシーンなのかも知れない。

全体としては、派手さ華やかさではいわゆるハリウッド映画にかなわないが、オフビートなユーモアとペーソスが入り混じって独特の空気感を醸し出す繊細なフィルムである。設定が設定なのでお涙頂戴的なところもあるが、それもハリウッド式紋切り型ではなく、監督の瑞々しい感性から生まれてきたものだと感じさせる。

ところでこの映画、しみじみした余韻に浸ってエンドクレジットを眺めていると、途中で出て来るキャプションにびっくりする。え、どういうこと? と一瞬頭が混乱するが、これもまたこの映画のトラジコメディ的雰囲気に似つかわしい、一種の茶目っ気なんだろうな。