ペルーの異端審問

『ペルーの異端審問』 フェルナンド・イワサキ   ☆☆☆★

以前日本で買ってきて斜め読みして本棚にしまいこんだ、ペルーの作家にして歴史家フェルナンド・イワサキのこの本をあらためてじっくり読んでみた。小説ではなくノンフィクションである。題材は中世の異端審問で、その中でも特にエロス方面の事例を集めて紹介してあるのが特徴だ。

中世といえばキリスト教会が絶対的な権威を持ち、神の名のもとに厳しい戒律で人々を支配していた時代で、暗くて重い時代、というイメージが強いと思う。特に人間の情欲については抑圧が大原則であって、禁欲こそ美徳、特に聖職者は性交など考えるだけでもけしからんとされる時代だ。まして変態性欲となったら、悪魔の所業として火あぶりにされかねない。

しかしそんな時代だって人間は人間、エッチしたいし欲情は現代人と何の変わりもない。しかも欲情は抑圧されればされるほど強く、濃くなるものなので、いったん暴発するとかえって凄まじい様相を呈する。本書は、そんな中世のエロの暴発事例をアイロニックな笑いとともに紹介しようという趣向なのである。

序文を筒井康隆とバルガス・リョサが書いている。この本の序文を筒井康隆に書いてもらおうと思った人の気持ちは、大変よく分かる。人間の欲望の暴走ぶりを哄笑とともに描くのは筒井康隆の十八番だからだ。筒井氏の序文は本書を「おおらかな笑い」という観点から、そしてリョサは歴史と文学の両立という観点から、高く評価している。

さて、本書ではそれぞれの章でひとつずつスキャンダラスな事件が紹介されるが、なんといっても印象的、というか衝撃的なのは、聖職者がその立場を利用して耽溺する淫行、悪行、そしていざ発覚した時の言い訳や開き直りの数々である。たとえば女性を全裸にして行われる審問、告解を誘惑の手段として利用する神父、などがそうだが、権力を握った人間が好き放題やるのは人間の性で、それは教会だろうが聖職者だろうがまったく変わりないことが分かる。要するに今の世の中の欲深な大金持ちや政治家がやっている所業を、当時は教会の聖職者がやっていたというだけのことだ。

男色者に関する裁判も出て来る。やはり男色というか、同性愛は悪魔の所業と見なされる時代だったのだ。この章では特にアイロニーの色が強く、男色行為に恐れおののき悪魔呼ばわりする聖職者たちを揶揄するトーンが目立つ。

このような、いわゆる典型的な淫行事件をいくつか紹介した後、本書は更に興味深く、味わい深い事例へと進んでいく。そのあたりは好みになるが、私が特に面白いと思ったのはたとえば空を飛行する能力を持つと言われた女、イネスの物語や、聖者の死体が示したある都合の悪い特徴の話である。都合の悪い特徴とはつまり、勃起である。高名な聖者の死体が明らかに勃起していて、誰もがそこに目を止めずにはいられなかったというお話。

空飛ぶ女イネスの話はまるでガルシア=マルケスが書いたホラ話みたいだが、この女性は事実空を飛んだとされ、これは言うまでもなく悪魔の所業であり、堕落の証拠とされたという。空を飛ぶなんてのは堕落なのである。

それから拷問して菓子の作り方を聞き出す異端審問員の話にも笑った。拷問された女性は、苦しみの果てに彼女のレシピを審問員たちに打ち明けたという。なぜそんなことが異端審問になるのかというと、この女性は他にも非処女を処女に見せかけるテクニックを女たちに教えたり、聖職者の精液を集めたりしたからなのである。

そしてまた違う意味でアイロニックなのは、「アリストテレスの裁判」と題された章である。これは、神は自然の中に宿っていると主張した聖職者の異端裁判で、彼が主張したのはたとえば、天国も地獄もない、この世界にある自然がすべてだ、だから我々は死んだら自然に帰るのだ、とか、性行為は邪悪ではない、悪魔も魔女も存在しない、といった事柄の数々だった。つまり、現代で言うならば完全な常識である。

ところが当時では、これらはことごとく異端であり、狂った主張であり、冒瀆的思想なのだった。この人物は、最後には正気を失った愚者として斬り捨てられたそうだ。しかし今の頭で考えてみると、このニコラスという人物は当時にしては驚くほど時代の偏見から解放された、物事の本質を見抜く知性の持ち主だったというべきだろう。もし現代の常識人がこの時代にトリップしたら、彼と同じことを言うに違いない。

本書では紹介されているのはこんな事例の数々である。どれもそれなりに興味深く、ブラックかつ滑稽で愉しめるが、私が何より感銘を受けたのは時代による世界観の違いだ。同じ人間なのに時代が違うとこうも違うのか、と驚いてしまう。先の「アリストテレスの裁判」が典型的だが、その世界観の違いは凄まじいとしかいいようのないレベルだ。私たちにとって当たり前の世界観は、中世の人々にとっては狂気そのものなのである。

なんとなく私たちは、どの時代の人間達も同じように感じ同じように考えながら暮らしていたと思いがちだが、そんなことはない。タイムトラベルものの映画みたいにもし現代人が大昔に戻ったら、当時の人々と交流するどころかたちまち拘束衣を着せられ、独房に放り込まれるだろう。

そんなことを考えながら読み終わろうとすると、本書の最後は「まことに神の敷く道は計り知れない」の一文で締めくくられる。著者のアイロニーが最大限に発揮された結語である。

冒頭、リョサは本書を「歴史と文学を両立させた」との観点で高く評価していたが、私も同感だ。本書はノンフィクションではあるものの、小説を読むように読むのが一番ふさわしい読み方だと思う。一種の中世奇譚集、と思って読んでもいいかも知れない。