口のなかの小鳥たち

『口のなかの小鳥たち』 サマンタ・シュウェブリン   ☆☆☆☆

積読になっていたサマンタ・シュウェブリンの短篇集を、しばらく前にようやく読んだ。聞き慣れない名前のこの著者はアルゼンチンの女流作家で、幻想的作風で有名らしい。アルゼンチンで幻想的作風というとボルヘスコルタサルを連想してしまうが、私見では、この作品集にはいかにもラテンアメリカ文学的な湿り気やロマンの香りはあまりなく、現在形を多用する文体はエイミー・ベンダージュディ・バドニッツらの、アメリカのアンリアリズム系の作家に近い。簡潔でスピード感があり、言葉遣いはポップだ。

ただしプロットはなかなか多様で、一概には言えない。比較的ストレートな幻想譚、不条理寓話みたいなものもあれば、現代の家族の肖像をシュールレアリスティックに描いたスケッチのようなものもある。母親の鬱病で崩壊した家庭のクリスマスにサンタと名乗る男がやってきて夫と喧嘩を始め、修羅場になるなんて生々しい話もあれば、兄の抑圧のもとで暮らす妹が人魚男とつきあう決心をする、なんて短篇もある。大体において現代的な家族の問題が中心にあって、その周囲に幻想的モチーフが配されるというパターンが多いようだ。純然たる幻想・奇想というよりも現代人の痛みをメインに据えているのが、やはり現代アメリカのアンリアリズム系作家を思わせる。

もう一つの明らかな特徴は不気味さ、暗さである。これも作品によってさまざまだが、たとえば表題作は小鳥を食べるようになった娘と、それに戸惑う両親を描く短篇だ。語り口こそポップだけれども、全体的な雰囲気はグロテスクで恐ろしい。終始父親視点で描かれるが、彼はひたすら困惑するばかりだ。訳者あとがきによれば、この短篇には強烈に「邪悪なもの」があって背筋を寒くさせるそうだ。ただしこの短篇には説明もオチもないので、「邪悪なもの」が何か私にははっきり言えない。とても謎めいていて、同時にひどく不気味な短篇である。

それからたとえば、「弟のパルテル」。これは鬱病の弟がいる「僕」の家庭を描く短篇だが、家族や親戚はみなふさわしい伴侶を見つけて幸福になり、事業も成功する。しかし弟の病気だけはまったく改善しない。ある日、親戚の子供が落した花輪を弟が拾い上げるのを見た「僕」は、なぜか不吉な予感に震え出す。ただそれだけである。これもほんの少しの仄めかしで成立しているような微妙な短篇だが、どうやら弟の鬱病と一族の幸福は表裏一体の関係にあるようなのだ。このシンプルさ、禍々しさが強烈な読後感を残す。

これらの不吉で不気味な短篇は、その寒々とした感触がコルタサルを思わせる。やはりアルゼンチン幻想作家のDNAがシュウェブリンにも引き継がれているらしい。

イタリアの不条理譚作家プッツァーティを思わせる短篇もあって、たとえば「疫病のごとく」はその一つ。ある村にやってきた調査員が村の子供を見つけて会話する。どこの国かどの時代かも分からないグレーな状況設定がとても寓話的で、オチも逆説的だ。「地の底」も奇怪な寓話というべき作品で、ある男がドライブインで不気味な話を聞く。近くの村で大きな穴を掘っていた子供たちが全員失踪し、それからというもの親たちは地面のあらゆるスポットを掘り返して子供たちの名を呼んでいるという。子供たちの失踪の原因や真相は語られない。

「草原地帯」もそうした短篇のひとつで、カフカ的と言ってもいいかも知れない。ある夫妻が知人から夕食に招待され、その家でなんだか分からない動物に襲われて逃げ出す。この夫妻はもともと何かを探し求めているがそれが何なのか読者には説明されないところなど、不条理寓話の色彩が濃厚だ。

それ以外に、「蝶」「最後の一周」のような小品も収録されている。これらはいずれもメタモルフォシスを題材にしたストレートな幻想譚である。どことなく暗い不安感が漂うところが、この作家の持ち味かも知れない。

そんなわけで、サンタクロースや人魚が出て来ることから分かるようにバロック的というよりポップだけれども、作品のムードは全体に重たく、不気味で、暗い。その中にはどこか現代的な家族の問題、たとえば鬱病や家庭崩壊が影を落としている。ざっくり言うと、コルタサルやプッツァーティのような不気味な幻想譚と、現代アメリカのアンリアリズム系ポップさと痛々しさを混ぜ合わせたような作風である。説明されない謎に謎が重なって、そこはかとなく戦慄させるテクニックはなかなか巧みだ。

あえていえば突出したオリジナリティがないのが難点かも知れないが、プッツァーティの不穏な寓話が好きな人は愉しめるだろう。31歳の若手作家の短篇集とは思えない老練さを感じる。