銀河の果ての落とし穴

『銀河の果ての落とし穴』 エトガル・ケレット   ☆☆☆☆★

エトガル・ケレットの新作短篇集の邦訳が出たので、さっそく入手した。茶目っ気たっぷりの軽やかな文体も型破りな発想も、もちろん全然変わりはないけれども、やっぱり短篇集全体を通して読むと、多少の変化を感じ取ることができる。

たとえば以前と比べて、いかにもシュールではなくなってきている。以前はたとえば「でぶっちょ」「チクッ」「びん」「壁の穴」などの作品で顕著だったように、シュールなアイデア一発から生まれてきたような短篇が多かったが、本書ではもはやそういうことはない。シュールさとは無縁の、日常的な光景や感覚を題材にしたテキストも多い。そういう作品はぎょっとする荒唐無稽さがない代わりに、微妙なセンチメントを醸しつつ、テキストそのものの浮力でふわふわと流れていく。とりとめのない印象を与える場合もあるが、文章家としての力量はこちらの方が要求されるだろう。

SF的な短篇も多くなってきた。シュールではなく、あくまでSFだ。表題作の「銀河の果ての落とし穴」を始め、「窓」「フリザードン」「タブラ・ラーサ」などがそうだ。つまりアイデア一発ではなく、SF的な仮説を立て、物語世界を設計し、登場人物を配置し、プロットを計算して展開していく短篇である。ちなみに「銀河の果ての落とし穴」はEメール形式の作品で、こまぎれになってあちこちに分散されて収録されている。「窓」バーチャルリアリティ、「フリザードン」はポケモンのパロディ、「タブラ・ラーサ」はクローン人間が題材になっている。

とりとめがないというか、何をいわんとするのか掴みがたい作品としては「かび」「トッド」「レジはあした」「バンバ」「はしご」「クラムケーキ」「家へ」などがある。たとえば「かび」では、カフェで倒れた男を別の男が病院に連れて行こうと車を飛ばし、事故に遭う。そこで突然作者が顔を出し、「ぼくはなぜこれらの人物を作り出したのか?」と自問し、(作者の)妻が部屋に入ってきたところで短篇が終わる。典型的なメタフィクションだが、最後にはぐらかされたような気分になる。

「トッド」は「女をベッドに連れ込めるような話を書いてくれ」と頼んでくる友人の話で、「レジはあした」は離婚した父親が幼い息子とコンビニに行き、息子がレジが欲しいと言い出して揉める話。「バンバ」は「ぼく」が変わり者の女の子と初体験する話。どのアイデアも超現実的ではなく、友人や家族や生活の中のあれこれが題材になっているが、テキストの流れがまるでジャズの即興演奏のように気ままだ。あらすじを説明することはできても、全体が何を意味するかはとても説明できない。個々のエピソードの繋がりも非論理的で、因果関係もないに等しい。

何だかよく分からない曖昧さとともに終わっていく短篇もあれば、そんな中に心の痛みや葛藤を感じさせる作品もある。「鉄クズの塊」「ホロコースト記念館」「アレルギー」「家へ」などがそうだが、中でも特に痛ましいのは「ホロコースト記念館」である。

二人の男女が旅行先でホロコースト記念館に行き、全裸で手をつないだユダヤ人の老夫婦の写真を見(もしぼくたちがある日公園に連れて行かれて裸にされ、これから殺されるとしたら、この二人のように手をつなげるだろうかと男は思う)、殺された子供たちの名前を聞く(あまりに多いため、すべて読み上げるには一年かかる)。二人の会話から、数週間前に女が独断で子供を堕ろし、男は激怒して病院でトラブルを起こしたことが分かる。男は女がいないところで涙を流す。すると展示を見て涙を流したゆきずりの日本人女性が、彼の首筋に手を当てて「人間が互いにこんなことをするなんて」と言う。

言うまでもなく、ホロコーストの記憶はケレットが作家として出発して以来の最重要テーマの一つである。それについては何も変わっていない。

もちろん、ケレットならではの不思議な小品も収録されている。その一番いいサンプルは「夜に」だろう。二ページにも満たない掌編で、夜、家族の構成員それぞれの心の中の思いが、お母さん、お父さん、男の子、金魚、の順に簡潔に描写される。なんという洒落た小品だろうか。私がケレット最高、と思うのはこういう作品を読んだ時だ。

それから最後に収録されている「別れの進化」は、「はじめ、ぼくたちは細胞だった」から始まるのでエイミー・ベンダー風のシュールな掌編かと思っていると、両親の死、大学へ行った息子、演劇のワークショップのことなどが走馬灯のようにすばやく駆け抜け、しまいに「ぼくたち」は大喧嘩をしてすべてをぶち壊してしまう。人生のエッセンスを抽象化し、シュールさをひとしずく垂らして、不思議な構造の散文詩に仕立てたようなケレットならではのテキストだった。筆の赴くまま適当に書き飛ばしたように見せながら、作品のトポロジーの複雑さは精妙極まりない。

プロットが以前より複合的になってきているのも、今回感じた変化のひとつである。たとえば、「クラムケーキ」は50歳の(おそらくは社会不適合の)息子と母親の優しい関係を描く短篇だが、誕生日のクラムケーキ、宝くじ、バスケットコートのトラブル、母親の病気、パキスタン自爆テロ、などさまざまなモチーフが現れては消え、再びクラムケーキに関する会話で終わる。

本書中最長の作品は最後から二番目の「パイナップルクラッシュ」だが、これはざっくり言うと学校で学童保育の仕事をしている「おれ」が、ふとしたきっかけで弁護士の女性と知り合って一緒にハッパをやる仲になる。彼女と時々会いながら、学校で児童とのトラブルなど色々あってしまいには解雇され、やがてハッパ友達の女性もいなくなる。「パイナップルクラッシュ」とはハッパの名前だ。「おれ」の人生のこと、ハッパのこと、親戚のこと、弁護士の女性のこと、学校の仕事のこと、児童のこと、などが盛り込まれ、ほとんど中篇小説のような豊かなディテールを持つ作品となっている。

イデア一発の即興演奏ではなく、設定と構成と登場人物配置を計算して書く「構築型」小説が増えてきたケレットだが、これはその典型的作品と言っていいんじゃないだろうか。

こんな風にいくつかの変化を感じ取ることができるケレットの最新短篇集だが、私は以前のシュールでぶっとんだ短篇群も大好きなので、以前の短篇集と比べて甲乙つけがたい、とだけ言っておこう。ちなみに本書収録作で私のフェイバリットをあげておくと、「夜に」「ホロコースト記念館「窓」「クラムケーキ」「アレルギー」「タブラ・ラーサ」「バンバ」「別れの進化」である。