フライデー・ブラック

『フライデー・ブラック』 ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー   ☆☆☆☆☆

変わった名前の作家さんだが、両親がガーナ出身のアフリカ系アメリカ人とのこと。ニューヨーク生まれのニューヨーク在住。1991年生まれだから今年まだ29歳という初々しい新人作家のデビュー短篇集だが、本書が出版されるや否やたちまちニューヨーク・タイムズで激賞され、ファッション誌やネットメディアでも取り上げられ、人気TVショーにも出演という異例の注目ぶりが話題になっている。

その理由はやはり、彼が書く作品のインパクトの強さによる。黒人差別という古くて新しいテーマに加え、ブラックユーモアとバイオレンスをたっぷり混ぜ合わせたダークな作風、シュールレアルでぶっ飛んだ奇想、ソーシャルメディアやゲームを取り込んだ現代性、スピード感あふれる文体。何もかもが強烈だ。そしてこの若さにしてこの才気、ガーナ系というエキゾチズム。文芸という地味なジャンルには珍しい、輝くようなスター性を持った新人作家さんのようである。

本書には全12篇が収録されているが、特に印象に残った短篇について感想を書いてみたい。

まず冒頭の「フィンケルスティーン5」。これが現時点でアジェイ=ブレニヤーの代名詞的作品にしてマグナス・オパスであることは間違いない。この作家の美点と個性がギュッと凝縮された短篇であり、あらゆる読者に強烈なインパクトを与えずにはおかない異次元の傑作だ。

設定からして過激で、「フィンケルスティーン5」とはある日通りすがりの白人男性にチェーンソーで首を切断された、五人の黒人の子供たちのことなのだ。犯人は子供連れの買い物客で、「自分と家族に危害を加えられそうな気がして」、ただスーパーマーケット前にたむろしていた黒人の子供たちを惨殺した。彼は裁判で無罪放免になる。アメリカ社会全体で議論が沸騰し、あちこちで暴動に近い事件が勃発する。黒人たちの怒りが社会に充満する。

この事件の進展と並行して、一人の失業した黒人青年エマニュエルの日常が描かれる。彼は常に自らの「ブラックネス」を調整しながら、白人に気を遣いつつ生きているが、職探しは難航する。「フィンケルスティーン5」関連のニュースに接すると、目もくらむ怒りと悲しみで我を忘れそうになる。そんな時にエマニュエルはかつての友人と再会し、白人社会への報復行為に巻き込まれていく…。

自分の「ブラックネス」を状況に合わせて意識的に引き上げたり引き下げたりする、というアメリカ社会で生きる黒人のリアルが生々しい一方で、「フィンケルスティーン5」事件や裁判の様子などはシュールレアリスティックで極端にデフォルメされている。バイオレンスたっぷりで毒があり、ちょっとコミカルなセンスもあるところはウィリアム・バロウズスラップスティックなコントのようだ。また、エマニュエルの行動と裁判の経過をバラバラにシャッフルしてみせる柔軟な手法も小気味よい。スピーディーで臨場感たっぷりの会話やアクションとあいまって、インパクトは甚大である。

しかし何よりも、あまりに不条理な事件と裁判を通してじわじわ亢進していく憎悪を、生々しく鋭利に描き出したところが圧巻だ。読んでいて苦しくなってくるほどだ。この一篇は、本書を手に取った読者にいきなり浴びせられるノックアウト・パンチというしかない。

「旧時代」ではSF的な設定で、核戦争後のコミュニティとその変化した倫理感が描かれる。そこでは旧時代(つまり私たちが生きている現代)のマナーや思いやりは「嘘」として排除され、子供たちは「正直に」生きることを徹底して教え込まれる。つまり他者への嫌悪、差別、エゴイズムなどをそのまま表現するのが良しとされる世界。愛想良くしたり、思いやったり、「ありがとう」と言ったりすることもすべて「嘘」であり、悪とされる世界だ。

そんな中で生きる少年が、旧時代の倫理観を持って生きる家族に出会う。やはりブラックで、「自分の気持ちに正直に」生きるのがクールという風潮への辛辣な風刺である。

「ラーク・ストリート」は更にシュールレアリスティックな短篇で、中絶された双生児の胎児の霊とその父親が会話しながらサイキックのところへ行くという話。一体どこからこんな発想が出て来るのかと言いたくなるが、やはり社会性と、弱者の痛みと、妄想を突き詰めたようなシュールでとんがった発想が特徴である。

一方、「病院にて」は父親を病院に連れていく話だが、生々しい病院内の描写と、小説を執筆して一個の別世界を創造する行為の不思議さがミックスされている。きわめてメタフィクショナルな短篇である。小説を書く主人公が作者アジェイ=ブレニヤー自身の投影であることは明白だが、この作品からうかがえるのは、アジェイ=ブレニヤーは職人的作家というよりきわめてシャーマン的な創造者だということだ。

「ジマー・ランド」は現代の若者らしくゲーム描写で埋め尽くされているが、それが「正義」の名の下に黒人を殺すゲーム、という火傷するような過激さがこの作者らしい。

表題作の「フライデー・ブラック」は著者がブティックで働いていた経験が活かされた作品で、同じ設定の「アイスキングが伝授する『ジャケットの売り方』」「小売業界で生きる秘訣」と合わせて三部作になっている。要するにブティックのセールスマンの話なのだが、やはり現実がバロウズ的な凶暴さをもって歪められ、いびつにデフォルメされている。ここに登場するセールスマン達は、悪夢的な世界で命がけのサバイバル競争をしているかのようだ。

掉尾を飾る「閃光を越えて」がまた強烈で、ある日世界を閃光で包んだ核爆発を機に、特定の時間がループし、人々が死んでも死んでも蘇るようになった世界の物語である。いわば悪夢的な『グラウンドホッグ・デイ』だ。そこでは子供たちが異能を獲得し、恐るべき凶暴さと敏捷さを武器に殺し合う。世界終末の光景、タイムループ、超能力、そしてバイオレンスと、これもウィリアム・バロウズの黙示録的SF作品を髣髴させる短篇である。

どの作品もベースになっているのは人間の醜さを暴き立てる苛烈さで、特に黒人差別への根深い怒り、怨嗟と言ってもいい種族的なルサンチマンが常に鳴り響いている。が、それがただ作品を重たく陰鬱にするのではなく、乾いた笑いやスピード感溢れる文体と結びついて読者を魅了する要素となっている。作品としてきちんと昇華されているのだ。加えて、そこに奇想天外なシュールレアリズムやメタフィクションが盛り込まれる。まさに才気煥発。

多くの短篇で顕著なゲームへの嗜好も目立った特徴である。ゲームやSNSといった現代のカルチャーを血肉とする、デジタル・ネイティヴ世代の文学なのである。本書を読むと、20世紀には存在しなかった新種の文学が誕生しつつある、という感じを強く受ける。

もう一つだけ細かいことを付け加えておくと、どの作品も、終わりの一行のセンスがとてもいい。企み過ぎず、もたつかず、あっけなく物語を放り出すような無造作な手つきがかえって作品に多義性を与える。これは生粋の文章家ならではの特徴で、リチャード・ブローティガンレイモンド・カーヴァーのような選ばれた作家に通じる資質だと思う。

まだまだ若さゆえに硬いところも散見されるが、やはりこのナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤーという若者、並みの才能ではない。