1973年のピンボール

1973年のピンボール』 村上春樹   ☆☆☆☆☆

本書は大昔に文庫を買って読み、全然何も心に響かず面白いとも思わなかったのですぐ処分してしまった小説である。確かこれが、最初に読んだ村上春樹の長編だったと思う。その後いくつか他の作品を読み、村上春樹ってこんななんだなと分かってきて、しばらく前にデビュー作『風の歌を聴け』を読んだところ結構面白かったので、もう一回読んでみようと思ってまた文庫本を買った。薄っぺらいのでそれほど損した気にはならない。

さて、昔読んだ時は「これのどこが面白いんだろう?」と不思議に思った本書だが、今回はかなり感銘を受けた。感動したと言っても過言ではない。一体なぜだろう?

昔面白く感じなかった理由は簡単である。ストーリーらしいストーリーがないからだ。少なくとも、この先どうなるのかと読者に気をもませるようなストーリーはない。ゆるくて、相互の関係が薄く、ぼんやりと拡散していくようなエピソードがただ気ままに並んでいるだけである。

どことなくシュールレアリスティックなムードではあるが、かといって奇想が展開されるわけでもない。主人公は「僕」と「鼠」と呼ばれる男二人で、彼らが女の子と会話したりバーに行ったりしているだけである。これを、昔の私はつまらないと思った。

では、今回感銘を受けた理由は何か。まず、文章があまりにもうまい。音楽的で、洒落てて、抽象的で、清新な透明感まである。日本の地名は時々出て来るのに強烈な無国籍感があり、日常のリアリズムや滓のようなものを一切感じさせない。といってもラノベみたいな軽薄さ薄っぺらさはまったくなく、心地よくメランコリックで、読みようによっては瞑想的ですらある。彼ほど遠くまでジャンプする日本の作家は存在しない、と言われる意表をつくメタファーが次々と繰り出され、変幻自在のリズムで織りなされる文章。これを読むのは、やっぱりきわめてスリリングだった。

ストーリーは確かに散漫だが、一方で自由奔放とも言える。先の予想がつかず、どこへ転がっていくかまったく分からない。予定調和やテンプレというものがない。作者のイマジネーションがまるでアメーバのように自由に、自ら内包する力で活動するのを読者は感じる。これは職人的なエンタメ小説では得られない感覚だ。

そもそも大部分の章では特段ストーリーが大きく動くこともなく、ただ登場人物が感じたことやムード的なものが書き連ねられているだけなのだが、それが読者を魅了するマジックを持っている。これは村上春樹の文章の特徴と言っていいと思うのだが、彼は茫洋としたもの、曖昧で掴みがたいもの、要するにロジカルでないものを的確に表現できるのである。

さて、ストーリーの内容的には「鼠」と「僕」の物語が交互に出て来る。「僕」は翻訳会社で働き、どこからともなく現れた双子と同棲し、ピンボールにハマる。「鼠」は女の子に出会い、別れ、ジェイズ・バーでジェイと会話し、町を出ていこうとする。

淡々と流れていくこの小説のメリハリというべき部分は、もっぱら「僕」のピンボール探索部分に負っている。「僕」はスペースシップという名前の珍しいピンボールマシンにハマり、ゲームセンターから急になくなったそのピンボールマシンを探す。そしてある倉庫でついに「彼女」と再会し、想像上の会話を交わし、別れを告げる。

ストーリーらしきものはその程度である。おまけに物事の因果関係というか、結局「僕」は何がしたかったのかとか、双子の女の子は何だったのかなど、色んなことがよく分からないまま終わってしまう。

だから明らかに、これは伏線の張り方やその回収などといったストーリー展開テクニックで読者を面白がらせる小説ではない。それを求めて本書を読むと、昔の私のように幻滅を味わうことになる。

そして、この不思議に透明な、しかし曖昧な情緒とニュアンスに満ちた小説には、すべては無から生まれ、ただ通り過ぎてまた無に帰っていく、というような諦念が根底にある。それは一種の空虚さがもたらす感覚であり、センチメンタルでも誰かへの同情でもない、いわば実存的な悲しさと言ってもいい。この実存的な悲しさとこの小説の無国籍的で洒落た感覚は、ちょっとだけボリス・ヴィアンを思わせる。

ちなみに、内田樹氏は村上春樹の愛読者らしくエッセーの色んなところで彼の作品について語っているが、本書についても言及がある。まず主人公の「僕」が翻訳会社で働いている部分が内田氏の経験とまったく一致していて、一体なぜ自分のことが書かれているのかと不思議に思ったそうだ。実際に彼は若い頃友人たちと一緒に起業した翻訳会社で仕事をしていて、その時の様子はここに書かれている通りだったという。

これを踏まえて内田氏は、一流の作家とは読者に「なぜ自分のことが書かれているのか?」と思わせる作家のことなのだと書いている。

もう一つ、本書の中の「鼠」とジェイの会話の中に手を潰された猫の話が出て来る。誰かが故意の猫を手を潰したと聞いて、「鼠」はそんな人間がいるなんて信じられない、と言う。するとジェイは、世界には信じられない悪意が存在する、いや実のところ我々はそれに取り囲まれている、と返事する。

内田氏によれば、この会話がまさに村上春樹文学の核心部分なのである。なぜなら村上春樹がその数々の作品を通して言おうとしているのは、世界には信じられない悪意が存在するということだから。とてもおとなしい、悪いことなんて何もしない猫の手を潰すような、そんな悪意が。

確かに、何かというとパスタを茹で、女の子と簡単にベッドインし、ジャズやビーチボーイズを聴いて洒落たセリフを吐く村上春樹の小説には、いつもどこかに痛々しく、不穏なものが隠されている。それを考えると、うなづける気がしないでもない。しかしもちろんこれは内田氏の解釈であって、村上春樹本人がなんと言うかは分からない。