案内係

『案内係』 フェリスベルト・エルナンデス   ☆☆☆☆★

グアテマラの作家フェリスベルト・エルナンデスの名前を初めて目にしたのは、ラテンアメリカ文学のアンソロジー『美しい水死人』で「水に浮かんだ家」を読んだ時だった。水に浮かんだ家と、そこに住む巨象のように太った未亡人と、その家に招かれて何をするでもなく暮らす「ぼく」が織りなす、夢うつつの儚い物語。その淡い幻想性の美しさにももちろん感銘を受けたが、それ以上に強い印象を受けたのは、ガルシア=マルケスコルタサル、あるいはフエンテスにも通じる、あのためらうような、仄めかすような、デリケートな饒舌さをもったラテンアメリカ文学特有の文体だった。もうずっと昔のことである。

が、当時エルナンデスの作品集は日本語で読めなかったので、いつか邦訳が出ることを期待して長い年月がたったわけだが、ついに水声社が本書を出したというニュースを聞いた時は本当に嬉しかった。飛びつくようにして買ったのだが、こういう本はタイミングを逃すとすぐ絶版になってしまうので気をつけなければならない。何度そうやって待ちかねた本を手に入れそこない、涙をのんだことだろう。

まあそんなわけで、待ちに待ったエルナンデスの作品集をついに読むことができた喜びはひとしおだ。少し評価が甘くなってしまうかも知れないが、そこはご容赦願いたい。

さて、本書には全部で13篇のテキストが収められている。少し詳しく書いておくと、最初の「わが短篇に関する偽の解説」が言ってみれば序文、続いて短篇小説九篇「誰もランプをつけていなかった」「案内係」「フリア以外」「初めての演奏会」「緑のハート」「家具の店〈カナリア〉」「ワニ」「ルクレツィア」「水に沈む家」が第一部に、長めの自伝的小説「クレメンテ・コリングのころ」が第二部に、そしてエッセー的作品である「ギャングの哲学」「フアン・メンデスまたは考えの雑貨屋またはわずかな日々の記」が第三部に、と分けて収録されている。

最初の「わが短篇に関する偽の解説」を読むと、タイトルに「偽の」という一言が入っていたり、「一番確かなのは、ぼくは自分の短篇をどうやって来るのか知らないということだ」などと人を喰ったセンテンスがあって、つかみどころのない幻想短篇「水に浮かんだ家」の作者らしい茶目っ気だと思うが、それに加えて、どこかアントニオ・タブッキに似た韜晦癖を感じさせるところがあって、私はすっかり嬉しくなってしまった。エルナンデスもタブッキと同じように読むものを煙に巻き、惑わせ、その惑いを作品の魅力としてしまうタイプの作家のようである。

さて、長いこと「水に浮かんだ家」一篇しか読んだことがなかった私は、この人は他に一体どんな短篇を書くのだろうと興味津々だったが、結論から言えば、「水に浮かんだ家」とよく似た質感の短篇が多い。小説家には色んなタイプの作品を書き分けるカメレオンみたいな作家もいるが、エルナンデスはどうやらそういうタイプではなく、むしろ一つのヴォイス、一つのスタイルをこつこつと追及していくタイプの作家のようだ。もちろん、作品の設定やプロットやアイデアはそれぞれ違うが、どの短篇も雰囲気がよく似ている。

たとえば、ひとつ目の短篇小説「誰もランプをつけていなかった」。あるパーティーで朗読をする「ぼく」の一人称で、パーティーでの出来事が淡々と語られる。たとえば、なよなよした青年、未亡人の姪などとのとりとめのない会話や、庭や部屋の中で目についたものが描写される。一貫したテーマのようなものはなく、色んな小さいモチーフが現れては消えていく。たとえば、自殺する方法、石像と鳩の描写、木と散歩する方法、炎と見まがう瓶、などなど。いくつか思わせぶりな暗合も登場するが、結局どれも意味は定かではない。

この短篇の中では、すべてが夢幻劇じみている。つまり、まるで夢の中の出来事のような感じがするのだ。『美しい水死人』のあとがきで木村栄一氏はエルナンデスの作品について「現実味がきわめて希薄で、とらえどころのない幻想性をたたえている」と書いているが、まったくそんな感じだ。

やがて部屋が暗くなり、皆が帰ろうとする頃、未亡人の姪が頼みがあると言って「ぼく」の袖をつかむ。それでこの短篇は終わる。頼みが何なのかは分からない。あちらこちらに意味ありげなディテールはあるけれども、全体としてはすべてがとりとめなく、儚い印象を与える。一貫したストーリーがないので、読後に残るのはただ謎めいた女のイメージだけだ。

次の「案内係」も、とても風変りな短篇である。映画館の案内係をしている「ぼく」が、ある時目から光を放つようになる。その後訪れた屋敷でショーケースのある部屋にもぐりこみ、テーブルの下に横たわって、毎晩そこに夢遊病で歩いてくる美女を眺めて暮らすようになる。ある日彼女を外で見かけ、帽子の男と一緒にいるのを見て「ぼく」は取り乱す。そしてその夜、夢遊病で歩いてきた彼女に帽子を投げつけて騒ぎを起こす。結果的に仕事をクビになり、目から光を出す能力も失ってしまう。

要約するとそんな話だが、これが何を意味するのかさっぱり分からない。このメインプロットに直接関係しないエピソードもあって、たとえば前半「ぼく」が食堂に行く場面では食堂の主人が溺死した娘のために無償で食事を提供していて、その食卓で一人の男が突然突っ伏して死ぬ。全体に生と死、夢と現実が交じりあっている感覚が濃厚で、しかも語り手「ぼく」の行動はかなり錯乱気味である。はっきり言って挙動不審で、読者が共感することは難しいだろう。

次の「フリア以外」では、自分は病気だという雑貨商の友人に招待され、「ぼく」は彼の家へ行き、トンネルの中に入って奇妙な儀式(遊び?)につきあう。暗闇の中、四人の少女が通路の左側に並び、右側には品物が置かれる。友人と「ぼく」はそれらに触れて何だか当てる、というゲームである。友人宅に滞在中、「ぼく」は少女にキスされたり、夜中に男の姿を見かけたり、トンネルの中で幻覚を見たりする。

ある時トンネルの中で機嫌を害した友人が、フリア以外全員外へ出ろ、と叫ぶ。しかし「ぼく」は隠れて友人とフリアの会話を聞く。友人はフリアに、彼女に触れるとウィーンにいるある女(友人の妻)のことを考えてしまう、と告げるのだった。数日後、帰宅した「ぼく」のもとを友人が訪れ、フリアとのことを打ち明ける。

ここまでの三篇は比較的長く、プロットも込み入っていて、エルナンデスのとりとめのないナラティヴ、夢幻性、謎めいたムードという特徴を如実に示す作品群だが、次の三篇は比較的短くて簡潔だ。「初めての演奏会」は演奏会前の準備から演奏会までを描く短篇で、ピアニストが緊張したり、着る服で迷ったり、入場の練習をしたり、コンサート本番で黒猫が舞台に上がって来るのを見たりする。コミカルな味わいもあって、エルナンデス自身のピアニストとしての経験が活かされている。実際本書の短篇では、主人公がピアニストというパターンが多い。

「緑のハート」は、祖母からもらったネクタイピンにまつわるアルゼンチンの村の思い出話で、とりとめのない子供時代の回想と現在(やはり演奏会で旅をしている)が入り混じる。これは短いが、やっぱりつかみどころがなく夢幻的だ。次の「家具の店<カナリア>」はパスの「波と暮らして」や「青い目の花束」のような短いコント・ファンタスティックで、路面電車の中で注射をうたれた「ぼく」の頭の中でラジオ放送が聴こえるようになる。それが家具の店<カナリア>の宣伝放送なのである。ユーモラスなところも、パスのコント・ファンタスティックに似ている。

次の「ワニ」はまた複雑でとりとめのない作風だが、ナンセンスなユーモア性が顕著に出ている。ピアニストでは稼げない「ぼく」は女性用ストッキングのセールスマンになり、ある日自由自在に涙を流せるという自分の能力に気づき、それを利用して営業成績を伸ばす話。特異な能力を得る点では「案内係」と似ているが、目から光が出るような非現実的な能力じゃなく、ただの嘘泣きである。幻想味は希薄だが、とりとめのない夢語りみたいな雰囲気はやはり共通している。ちなみにタイトルの「ワニ」は、スペイン語の「ワニの涙」が嘘泣きを意味することから来ているそうである。

「ルクレツィア」も謎めいた奇妙な短篇で、どうやら20世紀の未来からルネサンス時代へやって来たらしい男が、馬で長旅をして修道院に到着し、ルクレツィアという女性に会う。そのまま修道院に滞在してもの書きの仕事をするというのだが、結局はとりとめなく少女の墓参りをしたり葡萄酒を飲んだりして過ごし、しばらくしてまた修道院を去るという、そんな話である。未来からやって来た男の設定と、修道院の関係がよく分からない。もしかして修道院のルクレツィアは、未来で自分が知っていた人物の先祖なのだろうか。色んな推測は可能だが、謎解きはない。

次の「水に沈む家」は、もちろんアンソロジー『美しい水死人』では「水に浮かんだ家」と訳されていたエルナンデスの代表作で、「ぼく」が友人の紹介でマルガリータ夫人の水に浮かぶ家に招待される。「ぼく」は巨体のマルガリータ夫人と毎日のように一緒にボートに乗りつつ、彼女に惹かれる自分を感じ、彼女の昔語りに耳を傾ける。

この後はピアノの先生のことを書いた自伝的小説といくつかの断片的なエッセーが収録されているが、割愛させてもらう。エッセーは形而上学的で、迂遠で、韜晦に満ちていて、やはりとりとめのない印象を与える。どこかシュルレアリスムの自動書記に似た感じがする。

先に書いた通り、短篇それぞれの雰囲気はよく似通っていて、夢を見ているような非現実性、とりとめなく色んな出来事や回想に言及されるプロットの緩さ、饒舌で気ままな一人称の語り口、暗示や仄めかしが説明されないまま放置される非論理性、そしてそれらが醸し出す謎めいたムードが特徴と言っていいだろう。奇怪な行為に打ち込む人間や、奇妙な観念に取り憑かれた人間が登場するのもパターンである。

物語の中では次々と色んなことが起き、また語り手「ぼく」はそれにからめて色んな連想や回想をするが、それらが一本の線で結ばれていくことはない。ただ気まぐれに浮かんでは、消えていくのみだ。

その意味では、木村栄一氏の「エルナンデスの作品には不可思議でとらえがたい雰囲気がたたえられている」との評はまったく正しい。そして、本書はかなり読者を選ぶ本だと思う。ストーリーに大した牽引力はないし、登場人物に共感することも難しい。この本を好きになれるかどうかのポイントはおそらく二つで、この夢の中を彷徨っているようなムードを愉しめるかどうか、それとこの饒舌かつ曲がりくねった気まぐれな文体を好むかどうか、だろう。

特に、彼が駆使するメタファーは村上春樹に匹敵するほどアクロバティックだ。一例をあげると、たとえばこんな文章。「人差し指を上げると、あの指は今にも歌い出しそうな感じがしたものだ」

訳者あとがきによれば、エルナンデスの小説はボルヘスには完璧に無視されたが、コルタサルやガルシア=マルケスには驚きをもって受け止められたという。また、以前別のところで紹介したエンリーケ・ビラ=マタスの奇妙な書物『バートルビーと仲間たち』の中では、エルナンデスについて「彼の書いたすべての短編には結びがない、つまり結末のある作品を書くことを拒否した」「終わることのない短編を書き、扼殺された声を作り出し、不在を生み出した」と書かれており、このウルグアイの作家はバートルビー的作家の一変種として扱われている。

結末のない小説、終わることのない短篇、不在であるところの作品とは、いかにもエルナンデスにふさわしい。

そんなわけで、色々な意味で興味深い本書『案内人』だが、最後に一つ難点を言わせていただければ、日本語訳がこなれていない。これは私の趣味の問題かも知れないが、もともととりとめがなく、あちこち寄り道し、かつ奇抜なメタファーを連発する作家なので、この日本語訳では文章がすっと頭に入って来ない。

「水に沈む家」にしても、アンソロジー『美しい水死人』に収録されている「水に浮かんだ家」バージョンの方がずっとこなれていて、読んでいて自然に感じる。それに比べて本書の訳文は固く、一つ一つの言葉がバラバラで、こわばった印象を受ける。今回の翻訳者さんには大変申し訳ないが、本書も「水に浮かんだ家」と同じ方に訳して欲しかったな、というのが正直なところである。