イヴォンヌの香り(映画)

イヴォンヌの香り』 パトリス・ルコント監督   ☆☆★

モディアノの原作小説が素晴らしかったので、昔観て全然記憶に残っていなかったルコント監督の映画をまた観てみようと思い、DVDを購入して再見した。

イヴォンヌの香り』の公開は1994年で、ルコント監督の長編映画としては『仕立て屋の恋(1989年)』『髪結いの亭主(1990年)』、『タンゴ(1993年)』の次である。まさに油の乗り切った時期で、映画のスタイルもエロティックな恋愛ものとあの大傑作『髪結いの亭主』に近い。だからこの『イヴォンヌの香り』もあらためて観ると実は佳作、ということがあってもいいはずだと思ったのだが、今回再見してもやっぱり評価は上がらなかった。駄作とは言わない。しかし凡作である。ましてモディアノの原作と比べると数段見劣りしてしまう。

なぜだろう。設定やストーリーはおおむね原作に忠実である。まず明らかに違うのは、映画では主人公ヴィクター(原作では語り手の「ぼく」)に出会ったイヴォンヌがたちまち彼に身を任せてしまい、二人はラブラブな恋人同士になることだ。原作ではイヴォンヌとヴィクターの関係はもっと曖昧である。イヴォンヌはヴィクターを振り回すミステリアスな存在だが、映画のイヴォンヌはそうではない。ついでに言うと、原作のイヴォンヌはそばかすがあるような個性的な女性だが、映画のイヴォンヌは典型的なモデル風美女である。

おそらくこれは、ルコント監督が『髪結いの亭主』と同じような濃密な官能描写を本作にも盛り込みたかったせいだろうと思う。そうするにはヴィクターとイヴォンヌを恋人同士にしないわけにはいかない。確か原作には、二人のセックスシーンなどまったくなかったはずだ。

そして実際、本作にはエロティックなシーンがこれでもかと盛り込まれている。ほとんどそればかりと言ってもいいぐらいだ。テーブルの下で脚をからめるシーンに始まって、太腿を愛撫する、木陰で胸を愛撫する、船のデッキで下着を脱いだイヴォンヌのスカートが風でめくれておしりが丸見えになる、部屋でヴィクターが朗読しながら全裸で横たわるイヴォンヌの身体を撫でる、などなど。舞台が優雅な避暑地で、イヴォンヌがきれいでナイスバディなサンドラ・マジャーニなので、まるでソフトなポルノ映画みたいな雰囲気が漂っているのである。

原作との最大の違いはそれである。では、『髪結いの亭主』と比べてどうか。あれも官能描写満載で、しかも素晴らしい傑作だった。ルコントは本作を第二の『髪結いの亭主』にしたかったんじゃないかと思うが、それなのになぜ本作は、安っぽいポルノ映画みたいな印象を与えてしまうのだろう。

その理由は、官能描写を『髪結いの亭主』と見比べてみるとよく分かる。『髪結いの亭主』はシュールレアリスティックなファンタジーで、美容室という小宇宙の中で愛に生きる男女のおとぎ話だった。だから官能描写も、マチルダが客の髪をシャンプーしながらアントワーヌと愛を交わしたりと、まるでボリス・ヴィアンの超現実小説の中の出来事のような幻想味を帯びていた。しかし本作はそうではない。単なるメロドラマであり、官能シーンも太腿を撫でたり胸を撫でたりとストレートだ。要するに、より直接的なエロなのだ。愛の隠喩になっていない。

加えて、『髪結いの亭主』では二人が整髪料を混ぜ合わせたカクテルで乾杯したり、美容室で結婚式を上げたり、アントワーヌがアラビア歌謡でダンスしたりと、独創的なイメージやアイデアに溢れていたが、本作にはそうした要素が見当たらない。ただ絵葉書のようにきれいな背景、つまり豪華なホテルや避暑地で、きれいな男女がエッチし続けるだけだ。いわばポルノ風恋愛映画の紋切り型そのままであり、だから映画全体がとても薄っぺらく、貧弱に思える。

構成上の仕掛けとしては、原作と同じように、過去の美しく光り輝く思い出と寒々とした陰鬱な現在が並置されている。現在部分に登場するのはヴィクターとマント医師のみで、町はさびれ、映像も暗い。この現在の映像が途中で何度もインサートされる。そのせいで過去のイヴォンヌとの思い出がますます甘美に、陽光に満ちて感じられることになる。この光と影を対置する構成は原作通りだけれどもやはり効果的で、物語の陰影を増している。

前述の通りストーリーそのものも原作に忠実で、イヴォンヌがコンテストに出場するエピソードと、ヴィクターと二人で伯父を訪問するエピソードもちゃんとある。伯父役は『タンゴ』にも出演していたリシャール・ボーランジェである。避暑地の優雅でリッチな日々の描写も、まあ原作のイメージに近いと思う。そういうところはさすがパトリス・ルコント、美術や映像は一級品だ。

しかし、いくら美しい俳優たちを美しい風景の中において、洒落たセリフと官能的なシーンをちりばめても、それだけで素晴らしい映画にはならないのだった。やはり個々のエピソードに、あるいは場面場面の見せ方に、もっとアイデアと工夫が必要なのである。『髪結いの亭主』との決定的な違いはそこにある。これだと、主人公の若者がただリッチな避暑地で美女と出会ってラブラブな日々を過ごし、ある日突然フラれて悲しかった、というだけだ。

その結果、ヨーロピアンな『ティファニーで朝食を』というべきモディアノの美しい原作は、ソフトポルノタッチの、割とよくあるセンチメンタルな恋愛映画になってしまった。これは私見だが、ルコント監督の大人の寓話が傑作になるには何かしらエキセントリックな要素が不可欠だと思う。なぜなら、彼はリアリズムの作家ではないから。リアルなゴツゴツした手触り、切実さをスクリーン上に再現することにあまり関心がないルコント監督は、どこかでリアルから離れ、幻想の領域へテイクオフする必要がある。

淡い、ミステリアスな儚さが身上のモディアノと、濃密な官能性を追求するルコント監督、今回は噛み合わせが悪かったと言わざるを得ない。