アヒルと鴨のコインロッカー

アヒルと鴨のコインロッカー』 中村義洋監督   ☆☆☆★

『ポテチ』と同じく、これも伊坂幸太郎原作の中村監督映画化作品。短い『ポテチ』と違ってフルサイズの長編映画だが、手法は『ポテチ』とまったく同じ「多数のサブプロット投入によるメインプロット攪乱」方式、またの名を「ジグソーパズル」方式である。つまりごくシンプルなメインプロットをいくつものサブプロットで分断し、攪乱し、こまぎれの伏線を後で回収する快感を最大限に盛り込むことでストーリーテリングを強化する。

ということはあらすじを紹介してもほぼ無意味なので、止めておく。最初に互いに関係なさそうな色んな要素が次々とバラまかれるが、その大部分はメインプロットに直接繋がらない。バラまかれる要素とはたとえば外国人差別、引きこもりのブータン人、広辞苑の強盗、HIV疑惑、アヒルと鴨の違い、雨の中の猫の話、連発する動物虐待事件など。たくさんあって実に賑やかだが、この中で後半のメインストーリーに直接発展していくのはもっとも控え目に言及される動物虐待事件だけだ。他はまあ煙幕であり、装飾と言っていいだろう。

しかしもちろん、伊坂幸太郎作品においてはこの装飾の洒脱さ、華やかさが大きな魅力であることは言うまでもない。

思わせぶりな謎も色々と投入される。「ペットショップの女店長を信用するな」というセリフ、部屋の本棚から忽然と消えてしまった本などがそうだ。ポップソングの引用も伊坂幸太郎の十八番だが、今回はディランの「風に吹かれて」がテーマソングとして採用されている。主人公・椎名(濱田岳)の鼻歌から、高校時代の思い出から、物語の締めまで手を変え品を変え出て来て、本作の重要なスパイスとなっている。

さて、こうやって相互に関係なさそうなピースをバラバラにアトランダムに提示しておいて、後半で点と点をつないで一枚の絵に仕上げていく。『ポテチ』と同じである。

が、これはフル長編映画なので『ポテチ』にはなかった大技が登場する。これも伊丹幸太郎の得意技である、叙述トリックだ。前半、観客が「こう」と思い込んでいた物語が実はそうではなかったことが、後半になって判明する。そしてそれが、前半バラまかれたいくつかの謎を解く手がかりにもなっている。

この叙述トリックによる世界の反転がこの映画の目玉であることは間違いない。しかし小説でなく映像でこれをやるのはなかなか大変で、監督も苦心しただろうと思う。実際デメリットもあって、後半長々と「答え合わせ」のシーンが続く。つまり、前半で一度やった場面が、「修正された」バージョンでもう一度繰り返されるのである。これはどうしても冗長になってしまう。

それゆえに、この映画は華やかな装飾モチーフを次々にばらまきながら疾走する軽やかな前半に比べ、後半が重たく、もっさりしている。加えて、実は結構陰惨な話であるメインプロットが前面に出て来るので、余計その印象が強くなる。私はこの映画の魅力は前半に集中していると思う。

実際、今回久しぶりにこの映画を再見したら後半の展開はすっかり忘れていた。そもそもメインプロットを全然覚えておらず、記憶していたのは広辞苑強盗と隣に住んでいるブータン人ぐらいだった。つまり装飾部分、サブプロットの部分だけ。でもこの映画の観客は大部分そうなんじゃないだろうか。

本作最大の欠点はメインプロットの弱さである。これは要するに「復讐」なのだが、あまりにマンガ的で、色んな部分が雑で、説得力がない。経緯も不自然だし、悪役も無理やり憎たらしくしたような薄っぺらさだ。幼稚さすら感じる。

とはいえ、伊坂幸太郎の魅力は大体においてメインプロットの深みや掘り下げではなく、軽やかなその攪乱や装飾のしかたにあるわけで、その意味では、この映画は伊坂作品の魅力を十分に伝える映画だと思う。ご都合主義も目立つしリアリズムとも無縁だが、それも持ち味の一部なのである。

ただ、日本であそこまでひどい外国人差別をするかな、という点はちょっと気になった。バス停で助けを求めている外国人を全員で無視したり、大学で新入生を勧誘する上級生が外国人だと急にそっぽを向いたりする。私の感覚だとあれは盛り過ぎだ。海外居住者としての経験から言えば、日本人は欧米人に比べ、概して他国人に親切である。

ただ私の知り合いに言わせれば、日本人が親切なのは西洋人に対してだけでアジア人には冷たいそうなので、もしかしたらああいうこともあるのかも知れない。あるいは今の日本は、私が知っている数十年前の日本とは違うのかも知れない。

しかしまあ、ニューヨークでは通りで助けを求めている人がいても地面に倒れている人がいても無視するのが普通である。ひどいと思うかも知れないが、それが詐欺やトラブルに巻き込まれないための心得でもある。他人に親切にするって難しい。