権力者たち

『権力者たち』 マイク・ニコル   ☆☆☆☆

このところ仕事が超多忙となり更新が滞ってしまっている。コロナウィルス対応で会社全体のテレワーク推進を大至急進めているためだが、もともと全然ペーパーレスができていない旧体質な会社なので、ここへ来てどさっとツケが回ってきて、色んなことがグチャグチャになっている。久々に深夜残業をしてしまった。まあ、ブログ更新はできる範囲でやっていきたいと思います。

さて、著者のマイク・ニコルは南アフリカの作家で、あの『卒業』や『心の旅』の映画監督マイク・ニコルズとは別人である。本書はラテンアメリカ文学マジック・リアリズムが流行った頃に買ったのだが、ガルシア・マルケスによく似ているなあ、というのが第一印象だった。今回本棚の奥の眠っているのを発見し、引っ張り出して再読してみた。ちなみに、著者の小説で日本語に翻訳されているのはこれだけのようだ。

舞台は南アフリカのとある村。そこに赴任してきた警察署長ヌネスは、村人が何かを隠している、何か犯罪に手を染めていると考え、これまでなかった法律を定めて恐怖政治を敷き、村人を一人ずつ呼び出して尋問する。それで何も嗅ぎ出せないと、今度は村人たちに愛想良く振る舞うようになり、やがて信頼されて村の秘密を聞くが、その後再び恐怖政治に戻り、村人たちを手ひどく虐待する。ここまでで物語の半ばほどだ。

そして後半は時間を遡り、ヌネス登場以前の村の成り立ちが語られる。そもそもここに人が住むようになったいきさつや、前半に登場した個性豊かな村人たち一人一人がどういう経緯でこの村にやってきたのか、どんな過去を背負っているのか、それらが仔細に語られる。ある者は牢から出てこの村に流れて来るし、ある者は空からパラシュートで降ってくる、またある者は船で密航してくる。そしてこの村からダイヤモンドの原石が採れることが判明し、村人たちはダイヤモンドの違法売買に手を染めるようになる。

長い過去パートが終わると、物語終盤で再び前半の時間軸に戻る。そしてヌネスの長い長い独白をクライマックスとして、暑い暑いと叫ぶヌネスが一人でに燃え上がって死ぬ、というきわめて幻想的な結末を迎える。

このいかにもマジックリアリズム的なヌネスの死が典型的な例だが、この物語の登場人物やエピソードの数々はどれもガルシア・マルケスの『百年の孤独』や『族長の秋』の中のそれらと同じく、途方もない、奇想の限りを尽くしたような荒唐無稽さを特徴としている。なので一つ一つのエピソード、入れ子状になった物語のそれぞれは波乱万丈で、スリリングで、読んでいて飽きない。

たとえば、間男された復讐のために妻と愛人の子供を長い間家畜のように育てる夫、みたいな残酷なエピソードもあるし、犯罪やアウトローたちに絡んだエピソードも豊富だ。そしてまた、呪術師や予言者、あるいは亡霊なども次々と登場する。

更に言うと、こうした物語を語る文体もガルシア=マルケスそっくりだ。言ってみればマルケスのあのおとぎ話の語り部めいた饒舌な語り口をもうちょっと平易に、読みやすくした感じである。独白も多い。特にクライマックスであるヌネスの途切れない長い独白は圧巻で、この濃密な波乱万丈の物語をうまい具合に締めくくっている。

それにしても、この長い物語は一体何を言わんとしているのだろうか。中心人物は間違いなく警察署長ヌネスで、彼はこの村の存在そのものを最初から敵視し、村人たちを犯罪者だと決めつけ、決して心を開いて彼らの中に入って行こうとしない。恐怖政治を敷き、村人たちを虐待し、世界を呪詛で満たす。そして最後にはその呪詛で自らを滅ぼしてしまう。そんな人物だ。

しかしもちろん、この小説はヌネスやその人生を語るものではまったくなく、村の歴史と多彩な村人たち全体を語るものだ。ヌネスはそのための装置に過ぎない。一人一人の村人たちの過去の物語は起伏に富んでいてエンタメ的に面白いが、それが合体することで呪術的ともいえる共同体のありようが浮かび上がってくる。共同体は法律でも制度でも仕組みでもなく、その中におさまりきれないもの、人間的なもの、明文化できないさまざまな行為や思いの集積であり、いわば一種の「呪い」がかけられている、というようなことを私はこの物語から感じた。

そういう意味で、本書はやはりマコンドという村の歴史を語った『百年の孤独』タイプの小説ということになるだろう。ストーリーは面白いし、色んな個性的な登場人物がいて飽きさせないし、決して悪くない。というか、見事に秀逸なマジックリアリズム小説だと思う。

が、やはり、あまりにマルケスに似過ぎている。どうしてもそれがマイナスポイントになってしまう。物真似とまでは言わないが、明らかに『百年の孤独』の強い影響下にあり、そのせいで著者自身の個性が見えてこない。マルケスの手法をうまく咀嚼しているが、やはり本家本元にはかなわない。そうすると読者は、どうしても水で薄めたような物足りなさを感じてしまう。少なくとも私はそうだった。

私はイザベル・アジェンデの『エバ・ルーナのお話』を読んだ時、あまりにマルケスそっくりでびっくりした記憶があるが、本書を読んだ感想もそれと似ている。再読するとマイク・ニコルらしさが見えてくるかと思ったが、やっぱり同じだった。

彼らはいわば「ガルシア=マルケスの文学的子供たち」なのだろうし、それはそれで悪いことではないが、やっぱりいつかはそこから逸脱し、その作家ならではの持ち味を出していかなければまずいと思う。