イヴォンヌの香り

イヴォンヌの香り』 パトリック・モディアノ   ☆☆☆☆☆

モディアノの『イヴォンヌの香り』を再読した。昔パトリス・ルコント監督の映画化作品も観たが、ほとんど記憶に残っていない。あの名作『髪結いの亭主』を水で薄めたような雰囲気で、エロティックなシーンばかりが多い官能的な映画だったのを覚えている。それから何年もたってモディアノの原作を読んだが、原作はあそこまでエロティックではなく、もっと刹那的でミステリアスな情緒をたたえた、ヨーロッパ版『ティファニーで朝食を』とでもいうべきたたずまいの小説だった。もちろん、明らかに小説の方が良い。

舞台はジュネーヴにほど近い湖畔の避暑地。ヴィクトール・シュマラ伯爵と名乗る十八歳の語り手「ぼく」は、ある時マントという男と、彼の親しい友人らしき女性イヴォンヌに出会う。「ぼく」は年上のイヴォンヌに惹かれ、二人で高級ホテルの庭やテニスコートを散策し、あるいはマントと三人で避暑地のカフェで時間を過ごし、あるいは華やかな社交パーティーに出て人々のゴシップに耳を傾ける。

イヴォンヌは売り出し中の映画女優だという触れ込みだが、その他の素性はよく分からない。またマントは開業医をやっていたというが、やはり今何をやっているのかよく分からない。三人が避暑地で過ごす享楽的な日々の中で、「ぼく」は次第にイヴォンヌへの恋心を募らせ、彼女と一緒にアメリカに行きたいと願うようになる…。

はっきり言って、明瞭なストーリーらしきものはあまりない。いつものモディアノの小説と同じように、断片的なエピソードが並べられ、それらの因果関係は曖昧で、暗示的であるけれども茫洋として見定めがたい、蜃気楼めいた小説の輪郭を形作っていく。小説の大部分は「ぼく」とイヴォンヌ、そしてマントが一緒にどこに行った、何をした、どんな会話を交わした、というシーン(情景)の羅列である。目立つエピソードはイヴォンヌが出るコンテストの話、「ぼく」がイヴォンヌと一緒に彼女の叔父の家へ泊りに行く話、それから終盤にマントのアパート周辺に出没する秘密警察めいた男の影、その程度である。

そして最後、「ぼく」はイヴォンヌとのアメリカ行きを計画するが、出発直前になってイヴォンヌは突然姿を消してしまう。これまでのすべてが幻だったかのように、美しい面影だけを残して。

このように、この小説の構成は非常にシンプルである。プロットの上では、おそらくルコント監督の映画と何の違いもない(映画は記憶していないが、おそらくそうだろう)。しかし小説の方がはるかに豊饒で、陰りのある美しさを獲得できているのはなぜか。モディアノはどんな魔法を使って、これを成し遂げたのだろうか。

私が考える仕掛けその1は、まずこの物語のすべてが遠い過去の回想であるという体裁、枠組みである。本書は落ちぶれたマントが、すっかり変わってしまった町をみじめに徘徊するプロローグから始まる。そしてその後、過ぎ去った昔へと時間を遡って本篇が始まるが、そこで語られるすべては、長い歳月のフィルター越しに美しかった記憶を眺めている、という回想のトーンで語られる。この回想のトーンが、なんてことないささやかなエピソードを宝石に変質させる魔力を秘めている。

それから仕掛けその2。登場人物たちがみな正体不明であり、従ってあらゆることがミステリアスな陰りを帯びる。そもそも語り手「ぼく」の正体が不明だし、マントとイヴォンヌも、いわくありげな過去の仄めかしがあるものの、詳しいことは何も分からない。マントが開業医だという話も、果たして本当かどうか分からない。それらは結局解き明かされることがない謎の数々であり、ただ読者の想像を刺激し、広げ、そして物語に陰影を与える効果をもたらすためにばらまかれているかの如くだ。

仕掛けその3。この小説には常に微妙な不安感、どこか不穏な空気が漂っている。しかも、その理由がはっきり分からない。これもまた物語に暗い陰りとスリルを与え、読者を物語に惹きつける効果を発揮する。たとえば、語り手「ぼく」は湖畔の町で享楽的な時間を過ごしながら、いつでもそこを逃げ出せるようにしている。一体なぜなのか。このような不安の情緒でくるまれることによって、華やかだけれどもアンニュイな避暑地のイベントの数々が暗い詩情をまとうことになる。

ちなみに、訳者あとがきに「推理小説仕立て」とあるが、本書はおそらく大勢の読者がイメージするミステリ小説とはかなり違う。推理小説仕立てと言われると読者は、犯罪が起きる、謎が呈示され最後に解決される、トリックが使われる、読者を騙す仕掛けがある、などを思い浮かべると思うが、本書にはどれも当てはまらない。

そもそも大した事件は起きないし、伏線やその回収もない。謎めいた状況はあるが放置されたままだ。もっとも肝心な「ぼく」の正体すら最後まで分からない。すべてが暗示であり、仄めかしの域を出ることがない。従って訳者が言う「推理小説仕立て」とは、読者にすべてを説明せず、多くを謎のままに留めておくという程度の意味である。推理小説のプロットは通常精緻に計算され組み立てられるものだが、この小説の「推理小説的」なるものはもっぱらムードであり、情緒である。

従って、仕掛けその4は「逸脱」であると言いたい。脇道、道草と言ってもいい。大した事件が起きず、伏線も回収もないのだから、物語のディテールは場当たり的なものになる。メインプロットをサポートするものではなく、横道に逸れる、逸脱するモーメンタムとなる。それはたとえばパーティーの様子であり、映画界の状況であり、有名人の経歴であり、登場人物たちが着る服や靴のこまごました情報である。

それらは物語展開への前ふりでも仕込みでもなんでもない。読んですぐ忘れてしまっても、ストーリーを追う上ではまったく支障ない。この小説のディテールを構成するのは、そんな道草的なエピソードや情報ばかりである。それらは読んだ時に喚起されるイメージ(たとえば優雅さ、刹那性、はかなさ、空しさ、華やかさ、など)以上のものではない。逆に言えば、そうした蜃気楼のようなイメージの羅列でこの小説は成り立っているのであり、従ってストーリーではなく醸し出されるムードこそが、すなわちこの小説なのである。

これもあとがきに書かれていることだが、モディアノは十代の頃に『ティファニーで朝食を』を読んで強い印象を受けた。本書のプロットが『ティファニーで朝食を』に影響を受けているのは明らかだろう。自由気ままなイヴォンヌはホリーの双生児のようだし、語り手が彼女に恋し、一緒にいたいと願うのも同じ、親戚が登場してヒロインの根無し草的性格を嘆くのも同じ。また本書の語り手「ぼく」は『ティファニー』と違って作家ではないけれども、イヴォンヌと自分を、マリリン・モンローアーサー・ミラーになぞらえるような文学青年である。

そしてもちろん、ヒロインがいずこともなく消えてしまう物語の結末も酷似している。つまり本書は、モディアノ版『ティファニーで朝食を』なのである。『ティファニー』はニューヨークを舞台にすることでアメリカ的豪奢ときらびやかな虚飾をまとったフィッツジェラルド的な物語だったが、本書はヨーロッパの湖畔を舞台にすることで、更にリリカルで、刹那的な、夢のような儚さに彩られたロマンへと変貌している。

ティファニーで朝食を』は間違いなく名作だが、本書も決して負けていない。『ティファニー』が好きな人はぜひ読み比べてみて欲しい。

ホリー・ゴライトリーがそうだったように、イヴォンヌもまた男の想像を掻き立て、夢を見させ、しかる後にその手をすり抜けて記憶の彼方へと消えてしまう、ファム・ファタルアーキタイプを体現している。舞台となった避暑地の華やかさやミステリアスなムード含め、美しい一夏の夢のような印象を残す小説である。