牡丹燈籠

『牡丹燈籠』 山本薩夫監督   ☆☆☆☆★

超有名な怪談映画だが、私は今回日本版DVDを購入して、ようやく初鑑賞した。別に怪談映画なんて特殊なジャンルに関心があるわけではないのだけれども、これは高橋克彦氏の『幻想映画館完全版』で大絶賛されているのを読んでから、ずっと気になっていた映画なのである。ちなみに、この本で絶賛されていたせいで観た映画は他に『東海道四谷怪談』と『地獄』がある。いずれもなるほどと思わされる傑作だったので、高橋氏が『東海道四谷怪談』とともに日本怪談映画の最高峰と評するこの『牡丹燈籠』も、きっと傑作に違いないと期待して観た。そして、期待は裏切られなかった。

前述の『東海道四谷怪談』と『地獄』は両方とも中川信夫監督作だが、これは山本薩夫監督である。山本監督はもともと『白い巨塔』や『不毛地帯』などの社会派映画を得意とした人で、中川監督のような怪談映画畑の人ではない。そのせいか、作品の雰囲気はだいぶ違う。中川作品には玲瓏とした異界の空気がみなぎっているのに対し、本作は艶冶にして情緒豊か、匂い立つような浪漫の香りを放っている。それが、怪談といっても異界の悲恋をテーマにしたこの哀切な物語に、実にフィットしているのだ。

映像も美しい。どうやらまだブルーレイが出ていないらしいのが残念だが、私が買ったDVDでも、冒頭の親族会議のシーンこそ薄暗く堅苦しいが、その次の、夏の夕暮れの燈籠流しのシーンでは画面いっぱいに甘やかな情緒が広がり、一気に物語世界に搦めとられる心地がした。

そしてなんといっても、お盆には霊が冥界からこの世に帰ってきて生者と交わり、そしてまた数日後には冥界に戻っていく、生者は燈籠を川に流してそれを見送る、という日本的な風習の、名状しがたい美しさ。この世界観の中では、死んだ人々と生きている人々はまだどこかでつながっている。現世と冥界の境界線を越えて、いつか再び会うことができる。

現代ではほとんど失われてしまっているとしても、日本人の心の中にはまだどこかにそういう神秘の感覚が残っているのではないかと思うが、この映画を観ることで私たちはその世界観が当たり前だった時代に引き込まれていく。夜の川を流れていく無数の燈籠の美しい光景を眺めながら、私はなつかしいような怖いような、なんとも言えない甘美な陶酔を感じたものである。

さて、この物語は、燈籠流しで新三郎(本郷功次郎)が流れずに川辺に引っかかっていた二つの燈籠に気づき、それらを流してやるところから動き始める。燈籠が流れていくと、いつの間にかそこに立っていた二人の女が、私たちの燈籠を流して下さってありがとうございました、と御礼を言う。新三郎は一礼して去るが、彼はすでに若い方の女の面影に心惹かれるものを感じている。

言うまでもなく、この女人二人はこの世のものではないのである。御礼を言いたいといって家までやってきた二人を、新三郎は座敷に上げ、その哀しい身の上話を聞く。そして、お盆が明けると自由がきかない遊女の身の上に戻らなければならないのです、という「お嬢様」ことお露を抱く。二人はお盆の期間だけ夫婦として過ごす約束をし、相思相愛の仲になる。しかし幽霊と交わることによって新三郎の体は衰弱し、このままでは死んでしまうと易者の白翁堂(志村喬)に忠告される。

自分を「本の虫です」と称する新三郎だが、本郷功次郎はかなり脂分が多いルックスなのでこのセリフには違和感がある。むしろ焼肉食って日焼けサロンに通ってそう、というようなツッコミはさて置いて、ストーリーを転がすためのキーパーソンとして序盤から大活躍するのが伴蔵(西村晃)である。伴蔵が二人の逢瀬を目撃(というか、より正確には「覗き」)することでお露が幽霊があることが分かり、彼が易者に相談することで新三郎本人に忠告が行く。

この伴蔵を西村晃という超一流の役者が演じていることが、本作の成功要因の一つである。幽霊を見て腰を抜かすシーンや女給の顔をのっぺらぼうに見違えて悲鳴を上げるシーンなど、どれもほれぼれするほど素晴らしい。しかもこの人物はこすっからい悪党であり、新三郎の身を案じる隣人であり、かつコメディ・リリーフでもあるという、実質一人で何役も兼ねた、一筋縄ではいかないキャラクターである。これを破綻なく演じられるのは西村晃ぐらいだろう。

そして、この人も忘れちゃいけない志村喬。重鎮中の重鎮である。この人が出て来るとどんな映画でも品格が三割増しになるが、本作ももちろん例外ではない。彼が心配するからこそ観客も新三郎の身を心配するし、彼が忠告するからこそ新三郎も葛藤するのだ。特に西村晃志村喬の二人芝居の場面など、絵面だけ見るともはや黒澤映画と区別がつかない。素晴らしい重厚感だ。これだけでも日本映画ファンは陶然となってしまうに違いない。

さて、新三郎もついにお露が幽霊であることを受け入れ、このままでは死んでしまうというので、幽霊たちと縁を切ろうとする。なるほど、これは『雨月物語』の若狭姫のエピソードと同じなのだな、と遅まきながら私は悟った。姫と付き人、の二人で登場してくるところまで一緒だ。

そもそも死人と恋仲になって衰弱していく、というのは怪談の基本的な原型の一つであって、たとえば『異人たちとの夏』の名取裕子のエピソードもこれである。『牡丹燈籠』はこの原型を確立した物語だったのだ。なんてことはもしかしたら誰でも知っていることなのかも知れないが、私は知らなかったので勉強になりました。

さて、どうしてもお露と縁を切れない新三郎、とうとうベタベタお札を貼って封印したお堂に閉じこもることになる。このあたりで、これまで影も形もなかった小川真由美が登場する。伴蔵の女房・おみねである。おみねは伴蔵に輪をかけた欲深い女で、ここからこの欲深夫婦が前面に出て来る。お札のせいでお堂に入れないお露とお米に、金をくれればお札をはがしてやる、と持ちかけるのである。

そんなことをすれば多分新三郎は死んでしまうのだが、金を持って逃げちまえばいい、とおみねにそそのかされ、伴蔵も「それもそうだ」と納得する。最前まであんなに新三郎の身を心配していたのに、現金な奴だ。そして幽霊に言われた場所に行って地面を掘り、小判を発見して大喜びする。お堂に入ってお札をはがし、逃げ出す。と、後半はずっとこの欲深夫婦がメインで進む。

これで物語はにぎやかになるし、因果応報・勧善懲悪の分かりやすいメッセージ性まで付与されたが、その反面、新三郎・お露カップルの悲恋物語はいったん後退し、かつ欲深夫婦の言動がいささかコミカルなので怪談ムードに水を差す、というマイナス面もある。話の流れとムードの統一性を乱しているのは間違いない。もうちょっとメインプロットの方とうまく溶け合うよう、工夫が欲しかったところだ。

ついでに言うと、あの夫婦の片割れとしては、小川真由美はキレイ過ぎると思う。あの性格であの美貌だったら、こんな長屋に伴蔵なんかと一緒に暮らしていないだろう。舞台版では杉村春子が演じたそうだが、そっちの方が合いそうだ。

さて、結末は言わずもがななのでもう触れないが、結局あの村人たちの祈祷はまったく何の役にも立ってない、とだけはツッコませてもらう。幽霊も気にしているのはお札だけで、祈祷はまったく眼中にない。志村喬も意外とあてにならない。

全体として、怪談映画といってもあんまり怖くないので、ホラーが苦手な人でも問題なく観れると思う。幽霊の二人が宙に浮く程度だ。むしろ、冥界の人となって新三郎に恋し、逢いに来て拒まれるお露のあわれさが身に沁みる。新三郎もお露に恋をしたわけで、そう考えるとあの結末は一種のハッピーエンドと言えないこともないが、しかし生者の倫理観から言うならば、やはり幽霊にとり殺されるというのは忌まわしい。あの世の存在と交わるのはタブーなのだ。

とすれば、そもそも冥界の住人に恋をしてはいけない、というのが生者のモラルだということになる。つまり新次郎の恋は、アンモラルなものだった。モラルを超越した恋をしたことで、彼は生者の世界から追放されるという罰を受けたのである。