マリッジ・ストーリー

『マリッジ・ストーリー』 ノア・ボームバック監督   ☆☆☆☆☆

これも『ローマ』と同じくNetflixオリジナル映画なのだけれども、映画館で公開されてヒットする映画がほぼスーパーヒーローものかスパイアクションものという昨今、こんな良質なドラマ映画を制作し配信してしまうNetflixの株は、私の中で急上昇中だ。そのうちNetflixブランドは高品質映画の証明、みたいになってしまっても驚かない。

と言いたくなるぐらい、本作はいい映画である。主演はアダム・ドライヴァーとスカーレット・ヨハンセン。二人とも最近じゃアベンジャーズスターウォーズという典型的ビッグバジェット映画の顔だが、この映画では見違えるような瑞々しくリアルな演技を披露している。この人たちこんないい役者だったっけ、と思わず見直してしまったほどだ。

もちろんアダム・ドライヴァーは『パターソン』のバス運転手みたいなセンシティヴな演技を、スカーレット・ヨハンセンは『バーバー』や『マッチポイント』での曲者ぶりを、以前から知ってはいたのだが。

さて、あらすじはこうだ。ニューヨークで暮らす演出家と女優の夫婦が、離婚しようとしている。二人はもともと穏やかな協議離婚を望んでいたのだが、弁護士と会い、色んなアドバイスを受け、法的手続きをとっているうちに裁判沙汰になり、お互いの心のうちをぶちまけ合う修羅場になってしまう。

そのプロセスのややこしさと時に不条理な事態の進行にぶんぶん振り回される二人、そしてそれに伴って表面化してくる二人の内面の葛藤が絶妙に絡み合い、相互干渉し合って、直線的ではないプロットを編み上げていく。非常にクレバーな脚本であり、最初から最後まで観客を幻惑し続ける見事なストーリーテリングだ。

この映画はまず、二人のナレーションがそれぞれ相手の良いところをリストアップしあうところから始まる。自分にはない相手の長所を数え上げ、褒め称えるので、ラブラブな円満夫婦なのかなと思わせておいて、いきなり離婚のカウンセラーが登場。この始まり方も巧い。

そして大事なのは、この映画でチャーリーとニコールの二人は最初から離婚することに決まっていること。離婚を決心するまでの、おそらくそれもまた興味深くドラマティックであるはずのドラマは、ばっさりカットされている。あくまで、離婚手続きの中で二人が何を感じどう行動するか、そこにフォーカスした映画なのである。この絞り込みも成功要因の一つだ。これによって、映画全体が額縁に収まった絵のように引き締まっている。

この映画の中には三人の弁護士が登場する。彼らは離婚のプロであり、離婚とは何かをまだまだ青いチャーリーとニコールに、そして私達観客に教え、叩き込むメンターである。その視点は徹底して現実的、実務的で、センチメンタルなところはひとかけらもない。離婚とは仁義なき戦いであり、性悪説のきわみであり、法律で武装したむしり合い以外の何ものでもない、と彼らは熟知している。

同時に、彼らは事態をグツグツと発酵させ修羅場へと導いていく触媒でもある。この物語に一人も弁護士が登場しなかったら、二人の間があれほどこじれたかどうか疑問だ。

さて、三人の弁護士とはニコール側のノラ(ローラ・ダーン)、チャーリー側のジェイ(レイ・リオッタ)とバート(アラン・アルダ)だが、この三人のキャラ設定は本作の大きな見どころの一つである。ノラとジェイはやり手の弁護士で、稼ぎは大リーグ級、クライアントの扱いも打ち合わせ時の駆け引きもまったく堂に入ったものだ。そしてノラやチャーリー、つまり依頼人の「なるべく穏便にすませたい」という希望を一顧だにしないところも共通している。

残りの一人バートは、クライアントに寄り添うタイプのいわば「良心的」な弁護士で、チャーリーは彼に会ってはじめて話が通じる人間に出会った、と感激する。ところが係争の場になると、バートはノラに手も足も出ない。彼の事務所はボロで、料金も三人の中で一番安い。結局チャーリーは彼を解雇し、ノラと同じぐらいタフで非情なジェイを雇い直すことになる。そうしないと、自分がどんどん不利になっていくからだ。どうやら現代アメリカの離婚の場では、「良心的」な弁護士は無用の長物らしい。

そしてノラとジェイ二人の離婚弁護士のバトルは、最初は円満に、フレンドリーに別れようと思っていたチャーリーとニコールをどんどん遠い場所へと連れていく。手続きが進むにつれて、二人は対立を深めていく。一体これはどういうことなのか? もともと二人の間にあった対立が表面化しただけなのか、それとも離婚手続きが二人を対立へと押しやったのか。

何が原因で何が結果なのか。この現代アメリカ社会のややこしさと不条理感こそが、この映画を興味深くしている最重要ファクターだと思う。この映画の紹介文を読むと、たいてい「これまでのお互いに対する不満が噴出して裁判になる」みたいに書かれているが、本当のところはもっと微妙で複雑だ。この映画を観ていると、裁判になったからこそお互いに対する不満がエスカレートした、ともとれるのだ。

ところでこの映画はニューヨークとロサンジェルスというアメリカ東西の二大都市を舞台に繰り広げられるが、この設定もなかなか巧妙だ。まず、この距離の問題が離婚問題をややこしくする(チャーリーが不利になる)。加えて、それぞれの都市が持つ対照的なムードが、映画の味わいを立体的にしている。それぞれの都市がまるで夜と昼のように、チャーリーとニコールの価値観や性格を象徴している。

作劇面の特徴としては、長回しの芝居が多い。圧巻なのはチャーリーとニコールがお互いへの不満をぶちまけ合う終盤のシーンだが、二人とも凄まじい迫力で、しかも長いので観ている方もどっと疲れる。演技している二人はもっと疲れただろうが、そのおかげで迫力満点のシーンに仕上がっている。あれをただ怒鳴り合うだけでやられたら見るに耐えないシーンになっただろうが、寄せては返す二人の演技のダイナミズム、そして起伏のコントロールがあまりにも見事なので、まるでリズミカルな音楽をデュエットで奏でているような印象すら受ける。

それにしてもアダム・ドライヴァーはうまい役者だ。ヨハンセンも十分うまいが、ドライヴァーの演技はうまさに加えてどこか型を逸脱したところがあり、それが独特の印象を残すように思う。

脚本の巧さにはすでに触れたが、エピソードの組み合わせ方や配置の仕方、省略と長回しのバランスなど実に緻密だ。その結果、映画全体に鋭利かつ繊細なリアリズムが横溢している。リアリズムと言ってもありがちなエピソードが並んでいるわけでは全然なく、ぎょっとするようなエピソードも多い。終盤チャーリーのアパートに生活態度を見に来るおばさんなど異様だし、そこでチャーリーがアクシデントで腕を切ってしまう展開など唖然としてしまう。一体あれは何なのか。

おまけに、その事故はその場面だけで他のどこにもつながらない。何の伏線になるでもない、単発の、一過性のエピソードなのだ。こういうエピソード間の因果関係の緩さも、この映画のしたたかな柔構造を強化する結果になっている。因果関係がはっきりしていると分かりやすい代わりにストーリーが直線的に感じられるが、この映画は茫洋としていて全体像が掴みがたく、その分色んな解釈が可能になるという多義性をはらんでいる。

そしてラスト、忘れた頃に冒頭のあのメモ、チャーリーの良いところを列挙したニコールのメモが出て来る。思わず、あっと声が出てしまった。他では因果関係を緩くしておきながら、こういうところではキチッと決めて来る。憎たらしいぐらいのストーリーテラーぶりだ。

ウディ・アレンの映画を思わせる茶目っ気とアイロニーラッセ・ハルストレム監督の映画を思わせるロマンティシズムと痛みをあわせ持ったこの映画は、すでにクラシックの風格を漂わせている、と私は思う。