下流志向(その1)

下流志向』 内田樹   ☆☆☆☆☆

またしても内田樹氏の著作を読了。この人の本を全巻読破する勢いだが、面白くて止まらないのだからしかたがない。本書は教育、労働、そして師というものについて掘り下げた本で、大体において私が一大感銘を受けた『最終講義』の第五講の内容、つまりコスパで考えることは教育の自殺に等しく、教育の価値は事前に理解できないものだ、を更に敷衍したような内容になっている。非常に面白くて、啓発的だった。

最初のテーマは「勉強を嫌悪する日本の子供」である。著者は大学生を教える立場だが、最近の若者の学力低下は怠惰のせいではなく、これまでになかった新しい理由によるものだという仮説がまず呈示される。これでもうぐいっと引き付けられてしまう。

著者は具体例として、「矛盾」を「無純」と書いた女子大生の例を挙げる。彼女は決して無知無教養ではなく、むしろ勉強ができる方だという。この間違いにしても、いわば言葉の「意味」を考えた上で間違えている。

が、そもそも「矛盾」を「無純」と間違えるには、普段から「矛盾」という熟語を見ても(見たことがないはずはないのだから)意識せず、無視する、という態度を必要とする。これは彼女だけでなく、どうやら最近の多くの若者に共通していて、ものを読んでいる時に分からない部分を平然と無視できるようだ、と著者は言う。つまり彼らは、意味の虫食い状態の中で生きている。そしてそれが気にならない。

ここから始まって、ここまで極端な学力低下は自然ではないので怠慢が理由ではなく、意図的に学力をつけないよう「努力」しているのだ、というびっくりするような仮説が出て来る。いくらなんでもそれはないだろう、と思ってしまうが、著者はこれを市場原理主義がすべてに行き渡った影響だと説明する。

つまり、『最終講義』の第五講にもあったように生徒は授業を「サービス」として見、コスパ最優先の消費者としてその価値を「評価」している。そしてそれに見合った「対価」以上のものはびた一文払わないことを、賢い消費者の義務だと心得ている。この場合「支払い」とは、授業という「苦役」の「不快」に耐えることである。

だから生徒=消費者は当然ながらコスパを悪化させないため、支払いを「値切る」。つまり授業という「苦役」に必要以上に「耐えない」、要するに注意を払わないようになる。これは怠慢でそうなるのではなく、消費者の義務として、いわば無意識のうちに努力してそうやっているのだ。そうでなければ、自分は賢い消費者ではなくなってしまうから。

いかがだろうか。ちょっと信じがたい話ではあるが、これを生徒が特に意識せず、「それが生徒としてクールな態度」という刷り込みがなされているとすれば、多分納得できる。「お前、授業なんか一生懸命に聞いてバカじゃねえの?」とクラスメートに嘲笑された時、生徒はそれを恥と考えるのかも知れない。その「恥」の感覚の根底には、上記のようなコスパ意識と、それがクールでありスマートだという価値観がある。

しかしなぜ子供たちはそうなってしまったのか。ここからの考察がまたまた興味深い。つまり、昔は子供はまず「家の中で親の手伝い(たとえば家事)をする」ことで社会参加の感覚を初体験した。つまり、労働から入った。労働をすればその見返りに感謝されるのだ、ということから社会を学び始めた。

ところが今はそうではなく、消費から入る。金を持ってコンビニにモノを買いに行けば、子供はおとなと対等の立場になれる。ここから、金さえ持っていればどんなおとなとでも同じ立場に立てる「消費者」としての感覚、及び等価交換の考え方を身につける。つまり、学校へ行く前に消費主体として出来上がってしまう。当然、学校に行くようになったら授業や教育も等価交換で考える。

それから面白かったのは、タバコを吸っているのを教師に見つかった生徒が、タバコの火をもみ消しながら「吸ってねえよ」と言う話。これには笑った。吸っている現場をばっちり見られているのに「吸ってねえよ」という、これも昔はいなかったタイプらしい。目の前の教師に「吸ってねえよ」と言っても意味がないわけで、これも実は、将来の対価請求を見越した一種の「値切り」だという。

で、こういう子供が大きくなると、すぐばれる嘘で言い訳する社会人になる。

ちょっと前にはやった「自分探し」イデオロギーの危うさについての章もある。「自分探し」をする人はなぜか自分の周囲の人々(自分を一番良く知っているはずの人々)の言うことを聞こうとはせず、ひたすら自分の内面だけを見る。つまり、自分の本質にとって自分の興味・関心がすべてだという考え方をする。

その結果、「オレ的に見て」有用性がないと判断されたものはあっさり棄却される。どんなに歴史がある学問も、社会的に重視される知識も、伝統も、「オレ的に無意味」「コスパ悪過ぎ」と思われれば捨て去られる。むしろ捨て去るのがスマート、と見なされる。こうした手荒な価値判断が教育崩壊の根底にあると著者は言う。

『最終講義』の第五講にあった通り、教育とは自分が未だ持っていないモノサシを得ること、自分が今の自分ではない新しい人間に変わること、というのが著者の考えである。従ってその「価値」も「コスパ」も、今の自分には判断できない。

言葉を変えると、今の自分には価値が分からないから棄却する、という態度には伸びしろがない。こういう態度には、今の自分以上のものになれるチャンスがない。

面白い統計が紹介されている。子供の学力と自己肯定感の相関についての統計だが、ちょっと前の統計では、勉強している子供の方が勉強していない子供より自己肯定感が強かった。勉強しない子供は、自分は怠けているせいでクラスメートに劣後しつつあるという自覚があった。ところが最近はこの二つに相関がなくなっている。つまり、全然勉強していないにもかかわらず自信たっぷり、という子供が出現しているという。

どういうことかというと、学校の成績が悪いことがむしろ人間の価値を高める、あるいは、将来のために辛抱して勉強するより今を楽しむのがすぐれた人間である、という意識の子供が増えてきたということだ。こういう子供は、勉強しないで遊ぶことによって自分自身に「いい感じ」を持つようになる。

なるほど、そう言われてみればそんな考え方が社会全体で強まっている気がする。アリとキリギリスの寓話でも、昔はアリが良くてキリギリス駄目というのが常識だったが、今では怪しくなっている。

そのうちに話は教育から労働へと移り、労働から逃走する日本型ニートの話題になる。もしかすると2020年現在ではまた状況が変わっているのかも知れないが(本書は2009年出版)、当時の日本型ニートは働けないからやむなくニートになったのではなく、自ら働く権利を手放してニートとなった、つまり貧乏でも責任やストレスがない生活を選んだ、という点が世界的に見てユニークだという。

それは教育でも同じで、最近「義務教育」というと「子供は教育を受ける義務がある」という意味だと思っている人が多いが、実際はそうではなく、子供に教育を受けさせるのは親の義務、という意味だ。子供が教育を受けるのは権利であって、義務ではない。

そもそも幸福になる義務、社会保障を受ける義務がないのと同じように、まさか教育を受けたくない子供がいるという発想が、世界の常識としてないのだ。ところが今の日本では、その常識が通用しなくなりつつある。

さっきのアリとキリギリスの話もそうだが、これらの根底には「幸福とは何か」という人生究極の問題がある。自分が楽しいと感じることをする、自分がやりたいと思うことだけをするのが幸福で、それ以外はすべて不幸だとすれば、アリよりキリギリスの方が(たとえ冬になって野垂れ死んだとしても)幸福だということになる。これについて著者は、人間には「青い鳥探し」と「雪かき仕事」の両方が必要だと言う。

「青い鳥探し」とはもちろん自分がやりたいことの追求で、「雪かき仕事」とは自分がやるべきこと、共同体に対する義務を果たすことである。昔から「青い鳥探し」には誰だって熱心だったが、「雪かき仕事」の大切さもちゃんと認知されていた。ところが最近では、「雪かき仕事」をやる奴はバカだ、ダサい、というような価値観が広がりつつある。「こことは違うどこか」を求めるばかりで、今ここでベストを尽くすことをしない。

ちなみに「雪かき仕事」とは、著者が大ファンだという村上春樹の言葉らしい。

労働について著者があちこちで書いていることの一つに、労働とはもともとオーバーアチーブだ、という言説がある。つまり、等価交換ではない。ここまで生きてきた自分は共同体に借りがある、つまり気がついた時にはもう債務を背負っている、との意識が労働の動機付けになる。子供が親の家事を手伝い始めるのもそうだ。労働の本質とは、贈与を受けた(と感じている)ものが、それに対して返答することにある。

ところが等価交換を求める人は、「子供でも分かる価値」(つまり金持ちになれるとか有名になれるとか)がないと労働から逃走する。自分のトクにならないと労働する意味がないと考えるからだ、たとえそれが共同体にとって重要な仕事だったとしても。コスパがすべての価値観である。

しかしコスパ理論では、前述した日本型ニートを労働へと動機付けすることはできない。なぜなら、日本型ニートは「働かないことが幸せ」という人々だからだ。そして日本人の大部分が日本型ニートになってしまったら、もはやニート生活すら成り立たなくなる。なぜなら、その時は共同体が崩壊するからだ。

ちなみに、このあたりで堀江貴文氏への言及もある。彼が体現するのはコスパ最大化、つまり最小の投資で最大の利益を得るのが最高善という思想であり、だからこそ等価交換を信奉する若者たちの喝采を得た、と著者は言う。というか、堀江貴文氏自身が等価交換の最大の信奉者だとも言える。

(次回へ続く)