ポテチ

『ポテチ』 中村義洋監督   ☆☆☆★

手持ちDVDで再見した。これは上映時間が1時間ちょっとと全国公開された映画にしては異常に短いが、原作が短篇なので、無理に引き延ばさず自然な形で映像化したのだろう。内容的にもテーマ的にも引き伸ばすほどの濃さもなく、とてもあっさりしている。

中村義洋監督は『アヒルと鴨のコインロッカー』『フィッシュストーリー』『ゴールデンスランバー』と伊坂幸太郎原作ものの映画化をいくつも手掛けてきた監督で、だから伊坂作品の持ち味を知り尽くし、映像化のツボも十分に心得ている。本作は短くて構成も比較的シンプル、加えていささかトリッキーな伊坂作品の特徴を顕著に備えた作品であり、だから伊坂幸太郎+中村監督の方法論を非常に分かりやすく示したサンプルになっているように思う。

まず、映画のあらすじは大体次の通り。空き巣を生業とする今村忠司(濱田岳)とそのボスである「専務」(中村義洋)がある家に忍び込んだ時、たまたま電話の留守電メッセージを聞き、これから自殺するという娘・若葉(木村文乃)を止めに行く。忠司が説得役で、専務は下で若葉をキャッチする役である。自殺を思いとどまった若葉は、忠司と同棲を始める。

後日、空き巣のために忠司と若葉がプロ野球選手・尾崎の家に忍び混むとまた電話が鳴り、ストーカーに追われる娘が助けを求めて留守電メッセージを入れる。それを助けに行く忠司と若葉。が、娘はストーカーらしき若い男の車に乗って逃走。知り合いの空き巣にして探偵の黒澤(大森南朋)に車のナンバーを調べてもらい、若い男の住居に行くと、娘と男は恋人同士であることが判明。おそらく二人はツツモタセで、尾崎を騙そうとしたのだと忠司は憤る。

ところで忠司と尾崎は同郷で、忠司は尾崎の大ファンである。忠司は尾崎の素晴らしさを若葉に力説するが、ストーリーが進行する中で徐々に、尾崎と忠司は同い年であり、生年月日が同じで、しかも同じ病院で生まれたことが判明していく。忠司は母親(石田えり)に「尾崎のようなスターの母親になりたかった?」と尋ねたり、若葉がポテチの塩味とコンソメ味を「どっちでもいい」と言うと泣き出したりする。

忠司の様子がおかしいことを不審に思った若葉は黒澤に相談し、彼の口から意外な真実を知る。そして二人は、忠司と忠司の母を尾崎が出る(かも知れない)試合に連れていくのだった…。

まああらすじは大体上記で間違いないが、これだけ読んで本作のメインプロットが分かる人はまずいないだろう。それは伊坂幸太郎+中村監督の方法論が、ストーリーの自然な展開ではなくむしろ攪乱を目指しているからだ。つまり、意図的にストーリーに煙幕が張られている。

本作の芯となるアイデアは非常にシンプルなのだが、あらすじの前半部分はほとんどそれと関係がない。すべて枝葉である。伊坂幸太郎+中村監督はメインプロットを攪乱するため、芯となるアイデアと無関係なサブプロットをいくつもランダムに投入している。

それらが若い男と娘のツツモタセ・カップルだったり、忠司と若葉のなりそめだったり、フライが取れない野球選手だった専務だったりするわけだ。もちろん本筋に多少つながるように操作してあるが、かなり強引であり、これらは本筋を展開するために必要なエピソードとはいえない。

しかし、伊坂幸太郎+中村監督の方法論においてはそれでいいのである。なぜなら、これらサブプロットの本当の役割はシンプルな本筋を強化しサポートすることではなく、煙幕を張ることであり、観客をミスリードすることにあるからだ。このようにして、この映画の前半は本筋と関係ないエピソードで埋め尽くされる。

同時に、そんな煙幕の中に、本筋につながる細かな伏線が多数埋め込まれる。これはその時点では意味不明だが、あとで本筋が判明して収束した際に「ああ、あれがそうだったのか!」と読者(観客)に思わせる仕掛けで、本作ではたとえばプロ野球監督の女好き、ポテチの塩味とコンソメ味で泣く忠司、黒澤がツツモタセ・カップルに言う「特別にチャンスをやる」、専務の「フライを取ったことがない」、などがそれに当たる。

特にポテチの伏線は重要で、それは本作のタイトルが「ポテチ」であることからも明らかだが、あのシーンを見た時点で意味が分かる観客は皆無だろう。最後に謎解きされて、ようやくどういう意味だったのかが分かる。かつそれが一種リリカルなメタファーになっているために、意味が分かった瞬間ある種の感動を観客にもたらす。

これが、私が「伊坂幸太郎的な感動」と呼ぶものだ。いわば伏線回収の快感であり、ジグソーパズルが完成する快感に似ている。この快感は、それまでのストーリーのカオス度が高くなればなるほど強くなる。

これが伊坂幸太郎+中村監督の基本戦略である。断片化され攪乱されて、バラバラになったパズルのピースが最後につながって一つの絵が浮かび上がる快感。それを実現するための攪乱であり、煙幕なのだ。サブプロットで攪乱が難しい部分はカットされる。本作では、黒澤がツツモタセ・カップルに何を依頼したのか、黒澤と若葉がホテルで何をしたのか、がカットされている。

しかしながら、ただ煙幕を張ってワケわからなくしたのでは観客(読者)はついて来ない。そのためには、個々のシーンに独立した面白さがなければダメだ(なぜなら前後の脈絡は分からないのだから)。

そのために、コント的な細かなギャグが次々に投入される。それはたとえば忠司が重力や三角形の内角定理を独自に発見したり、忠司が若葉さんの自殺を止めるために「きりんに乗っていく」と言ったり、空き巣に入って筋トレしたりというギャグになるが、伊坂幸太郎+中村監督作品ではこのギャグ連発密度が非常に高い。なぜかというと、普通の映画のように前後の脈絡に頼ることができないからだ。

ギャグを連発する必要があるため、個々のシーンはしばしばコント的になる。従って映画のムードは当然リアリズムでも重厚でもなく、軽いコント風になる。この映画では空き巣にしろ自殺にしろすべて「ごっこ」風で、何の重たさもない。私はこれが伊坂幸太郎+中村監督方式の弱点だと思う。こういうのが好きな人には受けるだろうが、物足りないと感じる人もいるだろう。また、ギャグや会話が洒落ている場合は軽やかで楽しいが、すべるとたちまちバカバカしさが漂う。この映画では「きりんに乗っていく」とか「専務が下でキャッチする」なんて部分は、個人的にはすべっていたと思う。

もう一つ、セリフのリフレインもきわめて伊坂幸太郎的なテクニックだ。本作では「ホームランは球が遠くへ飛ぶだけ」「人生でフライを取ったことがない」なんてセリフが効果的にリフレインされ、観客をニヤリとさせる。黒澤の「おれは人の気持ちが分からない」なんてセリフもある。伊坂幸太郎は、こういうキャッチ―なセリフを使ってエスプリを効かせるのが巧い。

ところでさっき伏線回収の快感と書いたが、この作風においては伏線の回収は必ずしも自然である必要はなく、強引かつ人工的でまったく構わない。その典型的な例が、本作のエンドクレジット後にダメ押しのように挿入される、専務がボールをキャッチするシーンである。あまりに現実離れした無理やりな伏線の回収だが、それが「伏線を何がなんでも回収する」というギャグとして機能している。

あそこで笑わない観客はいないだろうし、本作ではその最後のギャグが冴えているために鑑賞後の満足感が二割増しになる。いずれにしろ、あの笑いと快感のメカニズムこそがこの映画の本質である。

前述の通り、本作は上記のような伊坂幸太郎+中村監督の方法論が明快に、分かりやすく、徹底して駆使されているために、短いけれども伊坂テイストに溢れた作品となっている。伊坂幸太郎ファン、中村義洋ファンには嬉しい作品だろう。ただその一方で、軽くてコント的でテーマの掘り下げも物足りない、という欠点もまた目立つように思う。