安城家の舞踏会

安城家の舞踏会』 吉村公三郎監督   ☆☆★

日本版DVDを購入して鑑賞。1947年公開のモノクロ作品だが、DVDの画質は想像以上に悪かった。パッケージ写真のようなクオリティではないので、購入を考えている人はそのつもりでご検討下さい。

内容はチェーホフの戯曲『桜の園』の翻案で、舞台劇そのものと言ってもいいくらい演劇的な映画だ。物語は基本的に舞踏会を開く前の一夜と、舞踏会当日の二つの場面だけで構成されている。場所はいずれも安城家のお屋敷。

あらすじを簡単に紹介すると、華族だった安城家の人々も身分制度の廃止とともに家屋敷を処分し、庶民同様働いていかなければならなくなる。華族と言っても身分があるだけの没落華族なので、財産もない。借金まみれだ。

そんな安城家は当主の伯爵(滝沢修)、気位が高い出戻りの長女(逢初夢子)、家族をまとめようと尽力する次女(原節子)、放蕩息子でニヒリスティックな長男(森雅之)というメンバーだが、話し合って最後の舞踏会を開こうということになる。舞踏会には安城家の屋敷の買い手候補である実業家、安城家の放蕩息子に惚れているその娘、かつて安城家に仕えていたが商売に成功して金持ちになった元・運転手、伯爵の妾、などがやってきて、さまざまな人間模様が繰り広げられる…。

主要なエピソードは、まず家屋敷を誰に売るかという問題。伯爵の協力者だった事業家の新川と、今は成金となった元運転手が候補で、伯爵は元運転手に買われるなんて我慢できず実業家の新川に期待をかけているが、新川はかつてさんざん伯爵の名前を利用しておきながら身分がなくなると掌を返し、「以前はどうあれ、今は関係ないでしょう」などと冷たく嘲笑する。カッとなった伯爵はピストルを取り出して新川を撃とうとする。

一方、次女の原節子は元運転手に買ってもらいたいと思っているが、この運転手は実は安城家の長女が好きで、彼女が嫁に行った時その辛さに耐え切れず安城家を辞めたという過去の持ち主である。舞踏会の夜、出戻ってきた長女に告白しようとするが、気位が高い長女に相手にされず、身分コンプレックスに悶々としながら酔っぱらう。色々とややこしい。

その他、安城家の放蕩息子が新川への復讐のためその娘を凌辱しようとしたり、伯爵が長年面倒を見ていた妾を舞踏会に呼んでみんなに紹介し、おまけに結婚を発表して大ヒンシュクをかったり、その直後自殺しようとしたりと、エピソードは豊富である。

感想としては、とりあえずここはどこなんだ、というのが第一印象。全然日本らしくない。当時の華族というものはもしかしたら本当にこんなだったのかも知れないが、それにしてもまったくリアリティを感じない。すべてが書割めいている。これはやはり、ロシア社交界の話をそのまんま日本に持ってきたせいじゃないだろうか。いくらなんでも無理がある。家の中のそのへんの引き出しに拳銃がしまってあったりする。日本の華族ってこんなだったのか?

言葉遣いもすごい。「~あそばせ」「~でございますわ」のオンパレードである。これも、もしかしたら当時の華族はそうだったのかも知れないが、今観ると違和感あり過ぎである。部分的にはギャグとしか思えない。

そもそも、これからは働かなくてはならない、人に仕えなくてはならない、なんていうこの安城家の人々の苦悩自体が現代存在しないために、当然観客である私たちには理解できない。だから共感するのは難しい。また、それを知らない現代の私たちにそれをまざまざと感じさせるほどの訴求力もない。

要するに色んな点で「借りてきた感」が強烈で、そのせいで物語世界に入り込むことができなかった。加えて、脚本もディテールが雑に思える。原節子は屋敷の買い手として元運転手に肩入れしているが、その元運転手は最初の話し合いではまるで伯爵に喧嘩を売ってるとしか思えず、あんな言い方をされたら誰だって怒ると思う。新川の娘と森雅之のエピソードもなんだか奥歯に挟まったようで、何をしたいのか不明瞭だ。当時の事情であれ以上の直接描写は無理だとしても、もっと演出のしようがなかったのだろうか。

そして肝心の原節子はどうか。彼女は常に映画の中心にいるのだが、それにしては彼女自身のエピソード、彼女自身のドラマがない。もちろん出番は多く、父親と踊ったり自殺を止めたりと色々活躍するのだが、それらはどれも彼女自身の問題ではない。要するに、彼女は常に誰かをサポートしているだけである。主人公としてはそこが物足りない。

石井妙子氏の『原節子の真実』によれば、これは原節子がフリーになった直後の映画である。彼女が東宝・新東宝以外の映画会社の映画にも出演できるようになり、それまで原節子を見たことがなかった監督たちが彼女の美貌を目の当たりにし、まるでライオンのようだ、と感嘆された頃である。まさに光り輝くような美貌で周囲を圧倒した時期で、もちろんこの映画の中でも美しいのだが、なんだか体が太く見える。小津映画ではそんな風に感じないので、これは撮影の加減か、あるいはこの時一時的に太っていたのかも知れない。従って、原節子の美貌を堪能する映画としても物足りない。

チェーホフの戯曲といい豪奢な舞台設定といい、素材は悪くないと思うのだが、ロシアから日本に持ってくるにあたってもう少しうまく調理する必要があったのではないかということと、脚本の細部が荒く、鈍重に思えることが個人的なマイナスポイントだ。本作は第21回キネマ旬報ベスト・テン第1位とかなり評価が高い映画なのだが、正直、そこまでの出来とは思えなかった。

おまけに没落華族の苦悩という、当時の時代背景と切り離して観るのが難しい題材だ。今の目で見ると更に点が辛くなってしまう。別に古い時代の題材だからダメというのではなく、江戸時代でも平安時代でも今観て感動できる映画はたくさんあるけれども、人間心理の中の普遍的なものに触れているかどうかだと思う。

安城家の人々が働かないといけないなんてかわいそう、とは多分誰も思わないが、自分たちはもう時代遅れの存在であり、消えゆく種族なのだ、という哀しみならば普遍的だ。『安城家の舞踏会』はそこにこそ情緒的な主軸を置くべきだったと思うのだ。いや、これはそういう映画だよ、という人もいるかも知れないし、おそらくチェーホフの戯曲はそういう意図なのだろうが、私はこの映画からあまりそれを感じることができなかった。「借りてきた感」が強い、というのはそういう意味でもある。

ところで、ラストは海の風景で終わるかなと思っていたら、なんと原節子の笑顔のアップで終わった。やっぱりこれは原節子をフィーチャーするための映画だったのだな、と納得した次第である。