罪の轍

『罪の轍』 奥田英朗   ☆☆☆☆☆

アマゾンから届いた本の分厚さを見て軽く驚いた。大長編である。本好きはみんなそうだと思うが、こういう厚みの本を見ると作品世界に長時間どっぷりのめり込める予感がして陶然となってしまう。本書はその期待を裏切らない、読者を物語の世界に引きずり込むマジックを持った傑作だった。長いだけでなく重厚であり、しかも緻密だ。

一言で言えば骨太の警察小説である。昭和38年というひと昔前の日本が舞台で、物語は北海道の島からスタートし、やがて東京に移って加速していく。昭和38年という時代設定によって今の日本社会とは明らかに違う、この時代の濃密でバイタリティに満ちた世相が物語世界の彩りとなり、魅力となっている。と同時に、時代を超える人の営み、社会が変動していくダイナミズムをあぶりだす仕掛けにもなっている。

昭和38年といえば電話やテレビが家庭に普及しつつある頃だが、事件というもの、そして捜査というものがその影響で否応なく変わっていくことについて、刑事たちが戸惑いをもって会話する場面がある。AIやビッグデータに戸惑う今の人々と何も変わらない。

警察小説なので、もちろん犯罪が主要なテーマとなる。誘拐殺人である。凶悪で、ドラマティックな犯罪だ。これまでも数々の警察小説の題材になっているが、本書のユニークさは特別なトリックや意外な犯人を排除したことだろう。誘拐を扱ったエンタメ小説といえば警察と犯人の虚々実々の駆け引きが読みどころになるのが常道で、それゆえに互いの計画・戦略も緻密にして複雑、従って犯人も単独犯でなくグループの場合が多い。リーダーは大体において知略にたけた頭脳犯である。こうして犯人グループと警察の知恵比べが火花を散らす。

ところが本書はそうではない。むしろ逆で、犯行は行き当たりばったり、計画なんてものすらないレベル。犯人は最初から読者の前に堂々と顔をさらして主役を張っている。この青年は知能犯でも天才的犯罪者でもなんでもなく、脳に障害を持つ青年なのである。子供たちには莫迦と呼ばれている。身寄りもなく孤独で、まともな生活力もなく、空き巣で生計を立てている。一応犯罪者ではあるが完全に小物だし、周囲の人間に利用されたりして、むしろかわいそうな青年である。

その孤独な青年が、日本中を震撼させる大事件を引き起こす。それが本書の物語だ。決して巧緻でも知略縦横でもない、むしろ稚拙な犯罪が、なぜ日本中を震撼させる大事件になってしまったのか。本書の肝はそこにある。これが従来の「知恵比べ」型の犯罪小説とは大きく肌合いが違う物語であることが分かっていただけるだろう。

もちろんあっさりカタがつく事件ではないので、警察は翻弄される。しかしその翻弄には偶然の要素が大きく作用している。犯人の行動や考えだけではなく、色んな要素が複雑に絡み合って出現した事件であり、悲劇なのだ。従って多くの「知恵比べ」型犯罪が本質的にゲーム的であるのに対し、本書は社会のさまざまな側面を反映する全体小説的な様相を呈する。

つまり、物語の根本にはミステリ的というよりも文学的なベクトルがあり、出来上がったストーリーもゲーム性より多義性を多くはらんでいる。だからこの小説においてはへんなギミックに走っていないのがむしろ効果的で、全体小説らしいどっしりした読後感を補強する結果となっている。

先の展開がよめない不穏さも、同じ理由によるものだ。ゲーム小説においては最初にルールが設定され、それが呑み込めたところではいゲーム開始、となるので構成は分かりやすく、楽しみ方も直線的だ。が、この小説はそうではない。ルールや取り決めなどないので、読者は一体この先どうなるのか、どんな面白さを期待して読めばいいのか分からない状態で読み進めることになる。

私も最初は、宇野寛治という空き巣青年のキャラから全然スケール感を感じず、これ一体どうなるんだろう、意外とつまらない犯罪の話なのかなと訝しく思いながら読んだが、途中からだんだん背筋が寒くなってくる。特に宇野がつきあっていた女の姿が見えなくなる頃から、その戦慄が加速度的に高まっていく。

後半、十分に物語が膨らんだ挙句に警察が宇野を発見するので、なるほど、このまま緩やかにフェードアウトしていくという渋い終わり方かなと思っていると、終盤は意外なほど手に汗握る怒涛の展開となる。もはや本を置けなくなる。それにしてもこの終盤の展開といい、全体小説的な重厚な雰囲気といい、あの名作『飢餓海峡』を思わせるところがある。

いずれにしろ、これだけ重厚な物語を創り出した著者の筆力は大したものだと思う。特に、宇野寛治という人物の説得力がキーといっていいこの小説は、突飛なアイデアやこけおどしのギミックではなく、人物描写の確かなリアリズムこそが最重要要素だったはずだ。これを力づくで実現した本書は、やはり重量級の力作にして傑作と呼ぶにふさわしい。