最終講義(その2)

(前回の続き)

それから第五講。本書のハイライトというべき章であり、ここで展開される考察に私は感動した。感心でも敬服でもなく、感動したのである。考察や論説で感動させられたのは、ミラン・クンデラ以来かも知れない。

ここで語られるのは、学びとは何かである。これまでの講義でも共通するテーマとして出てきた「学びとは」の考察が、ここで集大成的に展開される。内田氏は、教育がビジネス用語で語られることの危険性を切々と説く。ビジネスでは常識的な「投資対効果」つまりコスパで教育を語るのは、教育の自殺に等しい考え方である。なぜならば、教育の効果は数値化できないからだ。

今では生徒も父兄も、コスパで教育を考えるようになった。この授業を受けると、あるいはこの勉強をすると、一体私たちにどんないいことがあるのか、と彼らはまず聞いてくる。これはつまり消費者のマインドである。他の商品と比較してコスパが良ければ買ってやる、だから効能を言ってみろ、という態度だ。ところが、教育の本質とは生徒に未知の価値観を与えることであり、今は持っていない物差しを与えることである。従って、今この学問の価値を説明しても生徒には理解できない。

これは、前もって効能を理解してコスパを判断するという消費者マインドと真っ向から対立する。「おれには商品の価値が判断できる」というのが消費者マインドだからだ。今は判断できないからこそ「学ぶ」、という考え方はそこに生じない。考えてみよう。「おれにはこの学問の価値がもう分かっている」と思いながら教室へやってくる生徒に、一体どんな「学び」が可能だろうか。それはもはや教育でも学びでもない。そこにあるのは、寒々とした「学位工場」だけだ。

なぜそうなってしまうのか。その根っこには、教育の受益者は生徒だという考え方がある。勉強した結果いい会社へ入れる、あるいはいい年収の職業に就ける、あるいは株や金融で儲ける方法が身につく。それが「学び」のリターンだとみんな思っている。

が、そうではない。教育の真の受益者は生徒ではなく、彼らが属する社会でありコミュニティなのである。新しい世代を教育することでコミュニティが継続し、よりよい社会になり、人々が豊かで人間的な生活を送れるようになる。それが教育というものの役目なのだ、と著者は言う。

ひとりひとりが他人を蹴落とし、自分だけ金儲けし、利益を独り占めできるようにすることが教育の目的ではない。もし教育がそんなものに成り下がったら、たとえ一部の勝ち組がひととき富を謳歌できたとしても、やがて社会全体が避けがたく衰退し、コミュニティはやせ細り、結局誰もが貧困と退廃の中に落ち込んでいくだろう。今の日本は、すでにその道へと突き進みつつある。

まあ大体、こんな論考だ。私は以前から、なんでも「コスパ」で判断する風潮に気持ち悪さを感じていたが、本書を読んでその正体がはっきり分かった気がする。「コスパ」とはすべてをビジネス用語で語ることだが、そのことによって破壊されるものは数多い。というか、人間の幸福にとって大切なものの大部分は、これによって破壊されてしまうのではないか。

メインテーマである上記以外にも、たとえば、子供の成長のためには両親の他にもう一人身近なおとな(叔父または叔母)がいて、父親または母親の言うことに異論を唱えることが大事だ、という話も面白かった。異論を聞き、その矛盾に耐えて生きることが子供の成熟を促す。異論のない家庭では子供は成熟しない。むしろたった一つの「正論」に追い詰められ、萎縮していく。

この話を読んで、私は「男はつらいよ」シリーズを思い出した。博とさくらと満男の諏訪一家に、伯父の寅がいる。博と寅の言うことは大抵の場合真逆だ。寅は不在がちではあるが、実はあれが理想的状況なのかも知れない。

第六講は日本ユダヤ学会の話で、日本人がユダヤを研究することの意味が考察される。これは第一講~第五講と違って、自分はなぜ武道とユダヤ研究にほぼ同時期に惹かれたのか、何か共通する理由があるはずだ、から始まって、結局それは「反米」だった、というびっくりするような結論に辿り着く。

なんだか妙に個人的な話で、もちろんそれが部分的には日本人全体の考察にもつながるわけだが、全体としてはやっぱり自分の内面を掘り返してみせたような講義である。これまでの、社会的メッセージを発するような講義とは違う。本書のハイライトが第五講だったとすれば、これはその後クールダウンするための、パーソナルなエピローグなのかも知れない。

そして最後にオマケ(文庫版付録)としてついている「共生する作法」は、本書全体の要約のような内容になっている。アメリカのセルフメイドマン幻想(自分の世話は自分で見ろ、つまり弱肉強食)から始まり、教育機関は多様性が命という話がリフレインされる。そして「私」が「私」という個人だけで閉じるのではなく、「私」の延長が集団になり、コミュニティになり、更にそれが過去や未来の世代になるべきだと著者は説く。

なぜおれが払う税金で老人介護をしなければならないのだ、小学校を作らねばならないのだ、ではなく、自分も子供の時学校に行ったし、やがて老人になって体が衰弱する。それらも全部含めて「私」の延長だ、と思わなければならない。

グローバル人材というものの考察も面白かった。世界中どこへでも、いつでも派遣できる人間を企業はグローバル人材として重宝がる。しかし本来、人間の価値とは「あなたがいなくなると困る」という言葉で表現されるものではなかったか。いつでもどこへでも行ける人材とは、要するに「いついなくなってもいっこうに困らない」人間ではないのか。

最近はやりの「ノマド」的ライフスタイルに対する、かなり痛烈な一撃ではないだろうか。

その他、国家の株式会社化、政治家のCEO化の弊害など、面白く啓発的な論考が多数あるが、長くなったのでこのへんで止めておく。本書のおおまかな内容は感じ取っていただけたのではないかと思う。繰り返しになるが、市場原理、ビジネス用語、株式会社化への警鐘が一貫したテーマである。教育や政治までがビジネス用語で語られることによってもたらされた、現代社会の歪み。それを著者は根気よく、ひとつひとつ掘り起こして、情を傾けて語っていく。

何より素晴らしいのは、倫理とは何だろうという問いを常に忘れない著者の姿勢である。つまり人間社会において本当に大切なこととは何か。教育や、学びや、コミュニティを維持するという意味での政治は、本来どうあるべきなのか。単なる目先の功利主義を超え、人間社会や幸福の本質を見据える視点が揺るがない。これが素晴らしい。

社会が混沌とし、さまざまな価値観が大きく揺らいでいる今だからこそ、ぜひ多くに人に読んでもらいたいと思う本だった。