女の一生

女の一生』 野村芳太郎監督   ☆☆★

日本版DVDを購入して鑑賞。1967年の作品で、野村監督のフィルモグラフィーでは『拝啓天皇陛下様』(1963年)『続拝啓天皇陛下様』(1964)の後、『影の車』(1970)や『砂の器』(1974年)の前になる。脚本は野村芳太郎に加えて森崎東山田洋次の名前がクレジットされている。『男はつらいよ』シリーズの二人だ。本作はコメディではないけれども、そういわれれば冒頭の母親が体の不調を訴える場面などに、ちょっとコミカルな味がある。

さて、原作はもちろんモーパッサンの有名作である。あれを日本の旧家を舞台に翻案してあるわけだが、フランスと日本で雰囲気は違うけれどもストーリーは一緒。それほど不自然でもなく、なかなか健闘している。原作を読んだ人はご存知の通り、夢と希望に溢れる若いヒロインが歳を取るとともに人生に裏切られ、幻滅し、苦い諦念を身につけていく物語だ。

その意味では、本作は基本的に文芸風の味付けがされたメロドラマである。ヒロインの岩下志麻が次から次へとかわいそうな目に遭い、観客はああかわいそうに、と胸を痛めながら観る。これはモーパッサンの原作もそうなので、別に本作の瑕疵ではない。岩下志麻が夢と希望に溢れて男前の男性と結婚すると、この男はとんでもない浮気男で彼女を苦しめる。息子が出来て愛情を注いでいると、とんでもドラ息子に仕上がって母親を苦しめる。ヒロインの苦しみには、常に加害者がいる。悪い奴とんでもない奴がいて、そのせいでヒロインは不幸になる。これが分かりやすく感情移入しやすいメロドラマの構造である。

基本的な構造はこうだが、ただし本作にはヒロイン自身への批判も含まれている。夫の件はともかく、息子があんなになったのは母親の溺愛と甘やかしが原因だ。父親の宇野重吉が厳しく教育しようとしているのに、岩下志麻が請われるがままにいくらでも金を渡してしまう。

また息子の恋人が登場した時、岩下志麻は彼女をひどい女だと決めつけるが、観客がやがて悟るように彼女はそれほど悪い女ではない。無教養でガサツかも知れないが、むしろ性根は素直で親切な女である。それを悪く言い、息子を盲目的に甘やかしてしまう岩下志麻が、観客の目にはだんだん愚かしく見えてくる。盲目的な愛情、溺愛というものが本人とその周りの人々をいかに不幸にするか。これは、製作者がこのメロドラマティックな甘い映画に滑り込ませた唯一明確なアイロニーである。

物語は大きく前半の夫の浮気話、後半の息子の話、と二つの軸で展開する。前半の岩下志麻はひたすらかわいそうで、後半は愚かしい。私は前半の方が観ていて愉しかった。これこそ典型的メロドラマなのだが、田舎の旧家が舞台ということで映像が重厚だし、岩下志麻も美しく気品がある。浮気夫の栗塚旭も脂ぎった二枚目で適役だ。この栗塚旭がもう、とにかく憎たらしいのである。

この人は新選組土方歳三を演じて人気が出た人で、当時世の女性をうっとりさせたという。ちょっと前の木村拓哉みたいなもんだろうか。それがこのいやらしく卑劣で脂ギットギトみたいな男の役をやったのだから、その衝撃は推してしかるべしだ。好青年の二枚目で登場し、プロポーズし、岩下志麻は舞い上がってしまう。ところが結婚してみるとまずケチであることが発覚し、使用人たちから蛇蝎の如く嫌われ、人間の卑しさがどんどん出て来る。そしてとんでもない浮気性であり、かつ身勝手きわまりない卑劣漢であることが分かる。あーいやだ。

うまいのは、彼がまだ好青年と思われている序盤にその後の伏線がちゃんと忍ばせてあることである。彼が岩下志麻の家に初めてやってきた時、女中の左幸子が服をからげて洗い物をしているが、それを不自然にじっと眺めるシーンがある。あれでははあ、こいつドスケベだなと分かる仕掛けになっている。原作では結婚前の男はひたすら理想的に描かれていたので、これは映画オリジナルの工夫だろう。

しかしこういう、人間のちょっとしたしぐさに垣間見える違和感は人を見る時に大事だということがよく分かる。ちょっとした違和感を軽視してはいけない。人を見る目、というのはまさにそういうところに依存するのである。結婚相手として男を見る時は弱い立場の人に対する態度、たとえばレストランのウェイターさんやタクシーの運転手さんに対する態度を見るといい、それが将来の自分の対する態度だ、と言うが、あれは真理だと思う。

ちなみに、栗塚旭の浮気相手としてちょっとだけ小川真由美が出て来るが、この小川真由美の妖艶さは凄絶というべきレベル。画面に出てきただけで衝撃だった。あんなのが身近に現れて誘惑されたら、抵抗できる男はほとんどいないんじゃないだろうか。いや、私はもちろん大丈夫なんですけど。

そしてこのトンデモ夫が死に、息子が大きくなって後半へと突入するが、後半の息子に裏切られる話は東京が舞台なのでごちゃごちゃした狭いアパートのシーンが多く、映像的にもムード的にも前半の文芸的テイストがぐっと後退する。その意味で、前半と後半のバランスがよくない。統一感も阻害される。本作の欠点の一つだと思う。

それに、息子の話がいやに長い。原作は息子パートはこうまで長くなく、息子の恋人なんて登場しなかったんじゃないかと思うが、まあそのあたりの記憶は曖昧だ。私が覚えていないだけかも知れない。なんにせよ印象が薄い部分だし、冗長だと思う。岩下志麻と左時江が狭いアパートで押し問答しているところへ突然左幸子が「よっこらしょと」なんて言いながら入ってくる場面など、ほとんどコントみたいだ。

さて、最後になってしまったが、こんな風に色んなイヤな人間愚かしい人間が出て来るこの映画で、人間の気品と尊厳を一身に背負って立つキャラクターはもう、宇野重吉演じる父親しかいない。私が今回一番言いたかったのはこれである。優しく、聡明で、娘思いで、しかも卑劣な行為には敢然と立ち向かう滋味溢れる父親像の、なんと味わい深いことか。頼りがいがあって人間味がある。この宇野重吉を見れるだけでも幸せである。

唯一不思議なのは、あんなに賢明なのになんであの奥さんと結婚したのだろうということだが、それは何か事情があったのだろう。宇野重吉という役者の魅力をたっぷり味わえることが、もしかしたら本作一番のウリかも知れない。